淡々に、かつ克明に 湘南記念病院
待合室には「自由につぶやく」という表題のA4判のノートが置かれていた。湘南記念病院(神奈川県鎌倉市)の「かまくら乳がんセンター」患者が病気で押しつぶされそうな気持を、思い思いにつづっている。
「手術後、9年が経ちました。息子2人のシングルマザーで、あきらめるわけにはいかない。でも術後の抗がん剤治療で髪が抜け、先が見えずに絶望・・・。そんな時、私の思いを理解してくれた先生の言葉に大泣きしました。毎年、あと1年、あと1年、と生きています。先生に巡り合えてよかった。」
同センター長で乳腺外科医の土井貞子医師は「告知の時は【あなたのがんはこうで】と淡々と説明します」と話す。同センター独自の手帳に病理検査の結果などを克明に記し、図も示しながら「こうやって治していきましょう」と説明する。中途半端に伝えると、患者はかえって辛い思いをするという。
患者が激しく動揺した場合は看護師が外に連れ出す。「医師が全てをフォローしょうとすると無理が出る。医療スタッフからボランティアのサポートまで得意分野で力を発揮して、患者のケアにあたります」と話す。
病気を理解する
乳がんは、がんの中でも治りやすい一方、十数年経っても再発することがあり、長く付き合わなければならない。土井さん自ら母や叔母を乳がんで亡くしたことで、医師が何を求められているかを痛感し、患者や家族への対応や心構えが変わったという。
皆で温泉に 生きる力を蓄えて帰る
同センターでは定期的にカウンセリングや術後の体のケアなどを行う。また手術を受けた患者を中心に、年2回、土井さんの引率で温泉に行く。旅館を貸切、勉強会の後、術後のありのままでみんなで温泉に入る。参加者は必ずと言っていいほど生きる力を蓄えて帰るという。
土井さん:「がん患者は悲劇のヒロイン」というイメージをマスコミが作りすぎている。私は「かわいそう」という言葉は使いません。もちろん大変だけど誰でもなる病気。普通の事ととらえなければいけない。再発・転移の告知も、患者が「理解していない」と思うと、「次回は1時間取りますからゆっくり話しましよう」と話して帰ってもらう。きちんと話せば患者は必ずパニックから回復する。中には「治らないなら治療は止める」という患者さんもいるが、それは違うと思う。ただ延命するのではなく、つらいことが起こらないよう、治療することで快適な時間を長く作りましょうと、とことん説得します。
告知 悩みは心の不安
がん告知は医師にとっても重い仕事だ。国立がん研究センターの精神腫瘍医で、がん患者の心のケアについて研究する内富庸介医師は「1990年代前半は告知率が2~3割でした。2007年にがん対策基本法が施行されて以降、一気に増え、中小の病院はまだ6~7割ですが大病院はほぼ100%の状況」と話す。告知率が上がった背景はさまざまだが、患者が病を知らなければ、望ましい治療が出来なかったり、家族の間に亀裂が入ったりする可能性もある。
「がんに対する構え方も以前とは変わりました。5年生存率が6割になり、必ずしも悲観する必要はない。とはいえ腫瘍を取り除いても再発の恐怖があり、一度診断されると心への負担が大きいのです」。
告知・治療中の自殺者多数
がんと診断されて1年以内の自殺率が一般人と比べて約20倍とするデーターもある。告知で受けるストレスに加え、「治療で苦しむ」「仕事が続けられない」「家族に迷惑をかける」など将来を悲観して自殺する人も多いという。「いかに希望を持ってもらいつつ告知するか。すい臓や肺などの難治とされる患者や再発患者への告知、また治療の中止などの悪い知らせを医師がどう伝えるかが問題です。がん治療に関わる医療者を対象にセミナーも開かれているが、参加者がなかなか増えないのが現状だという。
患者さんの話に耳を傾ける
サバイバー(がん経験者)の悩みの半分以上が心の悩みです。今後サポート体制をどのように充実させるか」。先月、国会で「公認心理士法」が成立した。心理職が国家資格になることで、がん患者の心のケアの担い手としても期待される。内富さんは強調する。「主治医でも家族でもなく、ただ患者の話に耳を傾ける。そんなケアが必要とされます。
~がん克服のために~
北斗さんの手術後3倍に
タレントの北斗昌さん(48)が9月下旬、乳がんで右乳房の全摘手術を受けたことをきっかけに、乳がん検診の希望者が急増している。早期発見早期治療で死亡率が下がる場合もあるが、専門家は「健診の不利益も知った上で受診の判断をしてほしい」と呼びかけている。
今月14日、健診の為東京都世田谷区の保健センターを訪れた同区のパート勤務の女性(54)は、「北斗さんの報道を見て健診を予約した。人ごととは思えない」と話す。同センターによると、北斗さんの報道があってから、健診予約が通常の3倍に増加した。都内の乳がん検診・治療専門クリニックはホームページ上に「現在当院はかなり混み合っています」と掲載。「9月下旬から予約の電話が殺到し、現在は電話がつながりにくい状況」という。
自治体への問い合わせも増えている。大阪市健康つくり課によると、市のがん検診専用電話への予約や問い合わせは通常一日約30件だったが、9月下旬以降1日約100件に急増し、約180件の日も。国が推奨する「2年に1回」という受診ペースについて「毎年受けなくてもいいのか」という問い合わせも多いという。
賢く健診と付き合う
こうした動きに対して聖路加国際病院(東京都中央区)放射線科乳房画像診断室の角田博子室長は「検診を受けていれば絶対に大丈夫と考えないで」と呼びかける。がんにはさまざまな種類があり、進行が非常に速いがんは、検診による早期発見が難しい場合が在る。進行が非常に遅く、生きている間に症状が表れないがんは、検診で発見されると本来必要のない治療を受ける「過剰診断」となる恐れもある。
また結果的には良性腫瘍でも精密検査の負担が大きい「偽陽性」の問題もある。X線を乳房に照射するマンモグラフィー検査を必要以上に受けると放射線被ばくによる乳がんの誘発リスクも生じる。角田室長は「検診の利益と不利益を正しく知り、賢く健診と付き合ってほしい」と話す。
~がん克服のために~
乳房を無くす悲しみ
「胸がないのを見るのは、何より勇気が必要でした」今月3日、タレント(元プロレスラー)の北斗晶さん(48)は退院後に開いた記者会見で、ひとことひとことに素直な気持ちを込めた。
北斗さんは、右胸の乳頭の真下に2㌢の腫瘍が見つかり、先月、手術を受けた。脇のリンパに転移ががあり、病期でいえば「ステージ2b]。ステージは初期の「0」から、進行性の「4」まで5段階で示される。乳がんの手術は、初期で見つかれば部分的に切除して乳房を少しでも温存できるが、全摘出が必要な場合もある。北斗さんの場合も「全摘」で、ブログにも、手術後の胸をなななか直視できないつらさがつづられていた。
女性の象徴である乳房を失う。そんな乳がん患者の悲しみは計り知れない。
慰めの言葉にも傷ついて
「体に大きな傷が残り、異形の者になりはてたという心境でした」福岡在住で仕事を持ちながら13歳を頭に4人の子育てに追われるE子さん(48歳)は2011年秋、「安心するために受けた人間ドックで右胸にステージ1の乳がんが見つかった」。「まさか自分が」。当時、末の息子はまだ1歳。授乳をしながら眠るのが何よりも幸せだった。腫瘍は小さいながら広がっていて、医師からは全摘を勧められたが、結局1/4ほどを取り除いた。その約3年後、今度は左胸に腫瘍が見つかる。「この世が終わったかのような衝撃でした」。腫瘍が乳管内にとどまっている「非しゅん巡浸潤のステージ0だったが、右と同じく広範囲に広がっていた。乳首は残せたものの、乳房のほとんどを摘出せざるを得なかった。
ステージだけ考えれば初期のがんだ。しかし周囲の人から「早く見つかってよかったね」と言われると、「見つかった時の私の気持ちが分かりますか」と問い返したくなる。良かれと思ってかけられる言葉にも、深く傷ついた。休職中、子供たちを学校に送り出して一人、家事をしていると、ふいに涙があふれる。「なにも悪いことをしていないのに私が・・・」
最初の手術から4年が経った。「がんであることをまだ受け止められん」と親しい看護師に話すと、「永遠に受け止められんかもね。そのまま行くしかない」と包み込むように言われ、「今のままでいいんだ」と少し楽になった。
乳房再建はまだ考えられない。「今度入院しても、子供4人」の面倒を見てくれる人はいません」夫(51)は「僕はオッパイと結婚したわけじゃない」。と言ってくれる。それだけが救いだ。
乳房再建
乳がん手術で失ったり変形したりした乳房を、形成外科の手術で取り戻す。おなかや背中の皮膚や脂肪などを使う「自家組織」の再建と、シリコンの人工乳房による「インプラント」の再建がある。乳がん手術の後、間をおいて行われる場合もあれば、乳がん手術に引き続いて行う「同時再建」もある。従来は、自家組織の再建のみが保険適用だったが、最近、インプラントの再建も適用になり、選択の幅が広がった。
患者は余裕がない
闘病中の北斗さんのブログには、多い日には2000を超える応援のコメントが寄せられる。一方、「医師から5年生存率が59%と告げられた」という北斗さんの会見の発言には、疑問の声も上がった。実際、乳がんステージ2bの5年生存率は80%とするデーターが多い。
「同じステージの患者さんから、【家族に心配されて困る】という声も聞きます」と話すのは、千葉県の乳がん患者会「アイビー千葉」の関口淳子さんだ。「北斗さん自身、病気についての理解が十分でないのでは。誠実に話したいという気持ちが伝わるだけに悩ましい」。同会の代表、斎藤とし子さん(73)は「でも、告知から手術の人は、みんな北斗さんと同じ」と続ける。「まだ病についてきちんと理解できず、前向きに等なれないのに、治療の選択などをつぎつぎにせまられる。患者は(心身ともに)いっぱいいっぱいなんです。」。
たとえば乳房再建。今は技術が進み、選択肢は広がっている。生死には直接関わらないだけに、医師は患者に選択をゆ委ねる。形は変わっても自分の胸を温存するか、全摘してよりきれいに再建するか、がんを取り切るためにとにかく全摘するかー。全摘した患者は、治療を経て歳月が流れると、乳房を失った悲しみが癒えるのか。アイピー千葉が昨年7月、会員を対象にアンケートを行ったところ、全摘後、主に5~20年経った63人のうち9人が「胸が平らであばらが見えることが今でも辛い」と答えた。一方で、33人は「直後は辛かったが、今はあまり気にならない」と答えた。
がんで体の一部を失うのは乳がんだけではない。斎藤さんは、がん経験者が患者の精神的サポートにあたる「ピアサポーター」でもある。活動の場のサロンには、意を全摘した胃がん患者やストーマー(人工肛門)を備えた大腸がん患者も来る。「治療中、辛くて電車に飛び込もうとした」なんて人もいますと言う。でも大抵の人は手術後の体を受け入れ、不具合をかわす方法を会得して、後遺症と上手に暮らせるようになるそうだ。喉頭がんで声帯を失い、新たな発声法を学ぶ音楽家のつんくさんも、前向きにがんと立ち向かう姿を示している。
がん患者が抱える不安は病についてだけではない。突然の告知は精神的な重荷となり、心まで病んでしまう事になれば、治療に与える影響も小さくない。そのために、経験者によるサポートは必要だ。
~がん克服のために~
米国がん協会は20日、年に1度のマンモグラフィー(乳房X線撮影法)による乳がん検診の推奨年齢を、40歳から45歳に引き上げる指針を発表した。
米国医師会雑誌に掲載された新方針は、55歳以上の女性については健診を年一度から2年に1度に切り替えるように推奨している。
専門家らは、早期発見は生存率の向上に役立つ可能性があるが、40歳からすべての女性を検診すると、偽陽性、危険性がない腫瘍を取り除く外科手術、外科手術による合併症などの問題を引き起こす可能性があると指摘する。
米ハーバード大医学部のナンシー・キーテンング氏とフリガム・&・ウイメンズ病院のデリア・ベース氏は附属論説で、臨床試験の結果は、マンモグラフィーが若い女性の生存を助けるという点ではほぼ役に立たないということを示していると述べている。
両氏の論説によると、定期検診のお蔭で乳がんによる死亡を回避できる可能性があるのは、1万人当たり40歳代で5人、50歳代で10人だという。
論説は、若い女性の為には、マンモグラフィーの普及よりも、ゲノム危険因子の検出を含む高度なスクリーニング検査を提供した方が良いと指摘している。
~がん克服のために~
あん多くの激励メッセージが届く
元プロレスラーでタレントの北斗昌(48)が自身のブログで乳がんを公表し、9月24日に右乳房全摘手術を受けた。術後は順調で、おしどり夫婦として知られる夫の佐々木健介(49)と2人の愛児が献身的に看病を続けている。
毎年秋に乳がんの検診を受けていたそうだが、今年は異変を感じて初夏に前倒し。うつ伏せになった特に右胸に痛みを感じ、春に旅行に行った際には鏡で見ると右の乳房の位置が中心になくて、引きつってるいるように見えたという。
検査の結果、乳房の真下近くに直径2㌢大の腫瘍が見つかり7月7日にがんを告知された。右乳房の全摘出には抵抗もあったが、それでも「愛する子供たちの白髪の生えた顔が見たい。パパといつまでも手をつないで歩きたい」と前を向き、手術を決意するに至る胸中をブログでつずった.。
さらに「脇のリンパにまで転移している可能性がある」とも明かし、抗がん剤治療も始める予定。北斗は「5年先、10年先を生きるためにながい闘い入ります!必ず戻ると現時点では言えませんが…今は”またね!”と言わせてください」と復帰を誓った。
手術は無事に終了。2日後の26日には北斗本人がブログを更新。やはり脇のリンパに転移していたため除去したことを明かしたうえで「自分の足でトイレにも行けるようになりました」と回復ぶりをアピール。それも「オッパイが片方なのは、洋服の上からでも分かるんだけど、どうしてもまだ自分では右胸を見る勇気がなくて・・見たら、パニックになっちゃいそうなので。もう少し落ち着いたら、気持ちをしっかり持って一歩進めれば」と複雑な心境をのぞかせた。
広い交友関係を持つ人だけに、多くの友人・知人が激励のメッセージを寄せている。その一つ一つが北斗の心に届いているだろう。焦らず、完治を目指して頑張ってほしい。
一日も早く、「がん克服」されますよう。
甲状腺がんは女性に多いがんだ。がんの中では手術後の生存率は高い方だが、実際に見つかれば、たとえ小さな腫瘍でも不安になる。どう対処すれば基本的なことを知っておきたい。
人間ドックで発見
東京都渋谷区の女性は7年前、人間ドックの接触とエコー検査で甲状腺の腫瘍が見つかった。甲状腺専門の病院を紹介され、腫瘍に針を刺して行う細胞診検査で大きさ1.5cmのがんと診断された。全身麻酔で首の一部を切開し、がんの部位を除去した。1週間の入院の後、1週間の自宅療養を経て職場復帰した。
女性は「がんと聞いて最初はショックだったが、がんの進行がきわめてゆっくりの為、手術で治りやすいと言われ安心した。切除部分が小さく、片側の甲状腺が残っているため、ホルモンの不足はない。今は半年ごとに血液検査や超音波検査を受け、様子を見ている」と話した。バイエル薬品が昨年10月、甲状腺がん患者565人に尋ねたところ、治療を受けるきっかけで最も多かったのは「人間ドックなどの健康診断」(約36%)だった。自覚症状としては「首にしこりがある」「のどに痛みがある」「物を飲みこむときに違和感があった」「声がかすれたり、出にくくなった」などが多かった.
体の新陳代謝を調節する
甲状腺はのど仏の下にあり、チョウが羽を広げたような形をしている。甲状腺ホルモンを分泌し、体の新陳代謝を調節する重要な役割を果たす。甲状腺がんはこの甲状腺にできる腫瘍。女性に多く40~60代でかかりやすい。国立がん研究センターによると、毎年約13000人がかかり、約1700人が死亡している。甲状腺がんにはいくつかの種類があるが、約9割を占めるのが乳頭がん。進行は遅く、首のリンパ節に転移しやすいが、肺などへの転移は少ない。
微小は経過観察も
特徴的なのは超音波検査の進歩と普及によって、小さながんが見つかりやすくなったことだ。がんと言っても、1cm以下の微小がんの場合は、すぐに手術せず経過観察する選択肢もある。微小がんは発見されなければ、小さいまま転移も無く一生無害に経過するタイプもあるからだ。甲状腺がんの治療で知られる筒井英光・東京医科大教授(甲状腺外科)は「微小がんが、そのままの大きさでとどまるか、2~3cmと大きくなるのかは、見つかった時点ではわからない。一般に急に大きくなることはないので、半年に一回超音波検査で様子を見ながら、明らかに大きくなったり、1cmをこえたりしたら、その時手術をしても遅くはない」と話す。
経過観察は不安という患者もいるが、きちんと検査を受けて売れば、1cm以下で手術しても、1cmを超えてから手術しても予後に差はないという。乳頭がんの場合、手術を受けた患者の10年生存率は90%以上と高い。ただし、大きさが1cm以下でも、気管や神経に近い場所にあるものや、あきらかにリンパ節転移のあるものは手術が必要だ。
専門医の診断重要 経験豊富な専門医を
都道府県別に実名で紹介
重要なのは甲状腺がんに詳しい、専門医に診てもらうことだ。日本内分泌外科学会と日本甲状腺外科学会は、手術経験の豊富な専門医制度を共同で設け、ホームページで都道府県別に実名で紹介している。筒井教授は「最近は、甲状腺がんに効果のある分子標的薬も登場しており、医師に必要な専門知識も大きく変化している」と、専門医への受診を勧めている。
~がん克服のために~
日本医科大学主任教授
森田明夫(もりた あきお)先生
昭和32年7月生まれ 東京大学医学博士
昭和57年 東京大学医学部卒業 東京大学医学部付属病院脳神経外科入局
昭和58年 広島県新市町寺岡記念病院勤務
昭和59年 三井記念病院勤務
昭和62年 静岡県富士宮市脳障害研究所附属病院勤務
昭和63年 都立神経病院勤務
平成 元年 米国ミネソタ州ロチェスター市に留学
平成 2年 米国連邦医師資格取得
平成 7年 ジョージワシントン大学脳神経外科頭蓋底外科・施設長・教授
平成 9年 広島県新市町寺岡記念病院脳神経外科部長
平成10年 東京大学脳神経外科講師
平成13年 東京大学脳神経外科助教授
平成18年 NTT東日本病院脳神経外科部長
平成25年 日本医科大学脳神経外科主任教授
特殊専門 脳動脈瘤・脳腫瘍のスペシャリスト
頭蓋底疾患(脳腫瘍、脳血管障害)
聴神経腫瘍、髄膜腫の治療手術
脳動脈瘤の治療
脊髄・脊髄外科(脊髄腫瘍、ヘルニア)
定位脳外科(パーキンソン病等)
三叉神経/顔面麻痺の手術
年手術実績 世界有数の手術回数
●統計手術数 1269件
●未破裂動脈瘤手術 86件(うち血管治療12件)
●破壊動脈瘤手術 115件(うち血管治療 4件)
●脳虚血手術 915件
●脳腫瘍手術 211件
モットー 優れた研究を世界に発信
今を支えるための「臨床」、明日を支えるための「研究」、未来を支えるための「教育」があることを信ずる。「今後、さらに患者さんの為になる研究を進め、後輩たちが優れた研究を世界に発信できるように指導したい」
~がん克服のために~
平成21年5月中旬頃でした。化粧品のお世話になっている友人にエステに誘われ行ってみる事に・・。リンパの流れが悪くなっているからと、マッサージをしてもらい身も心も軽く帰途につきました。
まさかの 乳がん
途中で左胸が異常に熱を持ちはじめ、どんどん腫れて、夕方風呂に入ると乳房の真ん中あたりに3cm位の大きな固いしこりが出来ていました。今まで、体を洗うたび何もなかったし、自分はがんにならないと思い込んでいたのでビックリ・・・ショックでした。
同じ部落でがんの体験者である〇〇さんに相談すると、医大の放射線科に行くことをすすめられました。
早速受診すると、がんになって8年経っているし脇の下への転移もあるとの事でした。6月中旬に入院し、いろんな検査や抗がん剤の治療が始まり吐き気もひどく髪の毛も抜けてきました。
脇の下のがんが自然消滅 血糖値も下がる
そんな中、〇〇さんがある健康法のパンフレットを持ってきて、試してみてはとすすめてくれました。3回目の抗がん剤治療の後、思い切って飲んでみることに・・。
私には糖尿病の持病があって、手術時にはインスリンを打つ事を言われました。A1Cが6.7と血糖値が200近くあったのです。
朝・昼・夜の食前に3回飲んでみました。すると、1ヶ月もしないうちにA1Cが5.1と血糖値はなんと98まで下がり、脇の下にあったがんも消えていたので外科の先生もビックリ・・。血液もサラサラになりすぎ、手術前の血の止まる検査で5分位で止まるべき血が8分もかかってしまい、姫菊を飲むことを一時中断、3週間後にようやく手術可能になりました。いよいよ手術(もちろんインスリン無しです)、脇の下の転移していたところも念のため切り取り検査しましたが異常なしでした。
縁のつながり 運命を感じます
退院する時、同じ病室に千葉県から来ていた人が夫婦で糖尿病で悩んでいると聞いたので、この健康法の事を話すと早速注文して飲んだところ、ご主人の方は病院の薬が不要になり彼女も血糖値が下がり無事手術を終え、素晴らしい健康法を教えてくれてありがとうと、心から感謝されました。
思い返すと、あの時エステに行かなければがんの事はまだ知らずに、もう手遅れになつていたでしょう。そして姫菊の事を知らなければ、こんな良い結果を得られなかったでしょう。〇〇さんと教えて頂いた健康法に感謝感謝。いろんな縁のつながりを感じる今日この頃です。当初の目的の生存率5年をクリアして、次の目標の女性の平均寿命に向かいお世話になります。悩んでいる人があれば、教えてあげたいと思っています。これからも宜しくお願い申し上げます。
~がん克服のために~
旭川赤十字病院脳神経外科顧問 禎心会脳疾患研究所所長
上山博康(かみやま ひろやす)先生
1948年 青森県生まれ。
1973年 北海道大学医学部卒業 同大学脳神経外科入局。その後旭川、釧路、美唄などの関連医療機関で6年間研修した。旭川赤十字病院で研修中には毎晩顕微鏡を使い、ネズミの血管を縫う練習をした。その後、函館の国立療養所に脳神経外科を開設するため赴任した。
若いころから手先は器用で、手術には自信があった。29歳の時、一人の医師の手術を見て衝撃を受ける。
伊藤善太郎、全国的に知られた脳卒中のエキスパート。流れるような針の捌きに上山は目を見張った。自分もこんな手術が出来るようになりたい。
1980年 伊藤善太郎に弟子入りするために、国立療養所から秋田脳血管研究所へ転勤し伊藤のもとで働くことにした。伊藤の手術に立ち会い、その技術を懸命に学んだ。
伊藤からは技術の他、医師としての心構えも学んだ。「患者さんは命を懸けて医師の許にやって来る、だから医師もかくごがいる」それが上山の信念となった。
1985年 伊藤は志半ばで急逝する。上山は伊藤の死後北海道大学に戻り脳神経外科の助手になる。その後、脳動脈瘤手術数でギネスに登録される経歴を持つ、藤田健康衛生大学の佐野公俊に手術の相談や指導を受ける。
匠の手を持つ脳外科医 その腕を頼りに
全国から患者が集まってくる
そして旭川赤十字病院の脳神経外科部長になり、「患者さんが人生をかけてやってくる、僕は医師の命を懸ける」をモットーに自分の力が必要と言われれば日本中の病院に足を運び、脳血管手術や脳腫瘍の摘出手術など手がける。脳動脈瘤のクリッピング手術では年間300件以上/累計20000件ほどの手術をこなし、「脳血管に関わる手術で日本一」「匠の手を持つ脳外科医」と呼ばれるようになり、全国から患者が訪れるようになった。手術器具の開発にも力を入れ、特に上山式ハサミは今や全国の脳外科医がつかっており、上山が描いた脳外科手術のイラストも医学書に使われている。
「神の手」福島孝徳先生も絶賛
世界中から「神の手」「ラストホープ(最後の切り札)」と呼ばれる脳神経外科医・福島孝徳先生も、「もし僕が脳血管の手術を受けるなら上山先生にしてもらう」と発言するなど、その技術は同じ脳神経外科の先生の中でも際立って賞賛されている。
~がん克服の為に~
ホワイトジャックと呼ばれた男 藤田保健大学名誉教授
佐野公俊(さの ひろとし)先生
1945年 東京都に生まれる。
1970年 慶應義塾大学医学部卒業
1971年 慶應義塾大学医学部脳神経外科入局
1976年 藤田保健衛生大学赴任
1977年 藤田保健衛生大学医学部外科学科講師
1980年 藤田保健衛生大学脳神経外科助教授
2000年 藤田保健衛生大学脳神経外科教授
2001年 藤田保健衛生大学脳神経外科救急部教授
2003年 救命救急センター長
2004年 藤田保健衛生大学脳神経外科主任教授
2010年 総合新川橋病院副院長・脳神経外科顧問
藤田保健衛生大学名誉教授・藤田保健衛生大学脳神経外科客員教授
世界脳神経外科連盟 脳血管障害部門委員長
ギネス記録を保持するドクター
医師の祖父と叔父に憧れて、慶応大学医学部に入学。研修医時代に耳鼻咽喉科に研修に回ったとき、耳鼻咽喉科の手術に使われていた手術用の顕微鏡を脳外科手術でも使えないかと思い、脳外科医を目指した。だが、当時の日本では脳外科手術に顕微鏡は使われていなかったため、脳外科顕微鏡手術の豊富なアメリカに留学する予定だったが留学しなかった。一般外科の研修を行った後、慶應義塾大学で脳神経外科の研修に入った後脳神経外科に入局した。
1970年、日本に顕微鏡を使った脳外科手術が導入されると同時に、顕微鏡時代を予言し自費で顕微鏡を購入した。慶應義塾大学で手術器具を開発しながら多くの脳動脈瘤のクリッピング手術を経験した。
くも膜下出血の原因となる脳動脈手術は3500例以上も行い、200年、2001年のギネスブックに掲載された。
全ては患者の為
モットーは、「自分が患者だったら、やってもらいたいような手術をする」「丁寧できれいな手術を心がけ、次世代に伝える」こと。
世界でも極めて少ない無血手術が出来る腕を持っており、「神の手・仏の心を持つ医師、ブラックジャックならぬホワイトジャック」と呼ばれる高度な技術と、医師としての心構えに心を打たれ、師事する医師が後を絶たない。旭川赤十字病院の上川医師も薫陶を受けた一人である。
佐野先生の現在
藤田保健衛生大学退任後も、困難な症例のオペを藤田保健衛生大学で、川崎市にある総合新川橋病院では週2回の手術。静岡県の藤枝平成記念病院、豊川市の青山病院でもオペを行っている。名古屋脳神経外科クリニック・ジャパン藤脳クリニック・愛知腰痛オペセンター等で診察・外来診療も行っている。
がん克服・脳疾患治癒の為、いつまでもお元気で世界の腕を惜しみなく奮って戴きたい。
~がん克服のために~