がん克服【のどに違和感】かすれる、たんが絡む、声がかすれる
- 2015年11月29日
- がんのお話
がんの可能性がある
喉の違和感や声のかすれは、喉頭がんの代表的な症状である。また声帯の動きは、食道と気管の側面から喉頭に達する反射神経によって制御されるため、甲状腺や食道のがんでも、反回神経が侵されると神経が麻痺して声帯の動きが阻害され、声が出にくくなる。
また下咽頭がんが出来た場合も、のどに違和感が出てきて、進行すると声のかすれのほか、食事が通りにくくなったり、呼吸がくるしくなったりする。
喉の違和感や声のかすれは、喉頭がんの代表的な症状である。また声帯の動きは、食道と気管の側面から喉頭に達する反射神経によって制御されるため、甲状腺や食道のがんでも、反回神経が侵されると神経が麻痺して声帯の動きが阻害され、声が出にくくなる。
また下咽頭がんが出来た場合も、のどに違和感が出てきて、進行すると声のかすれのほか、食事が通りにくくなったり、呼吸がくるしくなったりする。
1956年 東京浅草に生まれる
1993年 千葉大学医学部卒業 聖路加国際病院外科で研修
1997年 聖路加国際病院外科副医長
2001年 第8回乳がん学会久野賞受賞
2003年 聖路加国際病院外科医長
2005年 同 ブレストセンター長・乳腺外科部長
2008年 千葉大学医学部臨床科准教授兼務
2009年 プロフェッショナル仕事の流儀第121回「人生によりそいがんと闘う」出演
2010年 昭和大学医学部外科講座乳腺外科部門教授・同病院ブレストセンター長
中村が率いる診断と治療の専門センターは、乳がんの手術数が700件を超える、日本屈指の多さを誇る。センターを立ち上げて、育て上げた。しかし、治療には常に謙虚さを持って向かう。
「自分の診断は本当に正しいのか」「これで間違いはないか」。中村は患者の声に真摯に耳を傾け、少しでも疑問が残る場合は、同僚に意見を求める。そして、その姿勢を若手医師にも伝えようとしている。「白衣を着ていると《先生》と思われるかも知れないけど、それに溺れてはいけない、もっと謙虚でなくてはいけない」と中村は言う。謙虚さを失うと、医師としての成長が止まってしまうと考えるのだ。
中村は、東京浅草で生まれ育った。父は浅草で名を知られた鍼灸師(しんきゅうし)だった。いつも、患者の愚痴や悩みを聞きながら、時には厳しく、時には優しく対応していた。中村は、そんな父の後ろ姿を見て育ち、医師の道を志した。
外科の道に進んだ中村は、いつか病気を「治す」ことばかりに目を向けるようになってしまい、いつの間にか、患者の「声」に真摯に耳を傾ける姿勢を忘れてしまっていた。
ある時、幼子を連れた再発患者が中村を頼ってやってきた。「一日でも長く生かせてあげたい」。しかし、抗がん剤を次々に投与しても効き目はなく、副作用の厳しさだけが彼女を襲った。そして彼女は「子供の世話をしたい」と言いながら、苦しみながら息を引き取った。中村は「自分のやり方は本当に正しかったのか」と、深く悩んだ。
中村は、救えなかった命を真摯に受け止め、乳がんの先進国であるアメリカでの研修を希望し、アメリカへ向かった。ここで中村は、一人の患者をたくさんの専門医でともに診る「チーム医療」というのを知る。
彼らは治療だけでなく、患者のその後の生活まで見据えて相談にのっていた。
日本に帰った中村は、時間を掛けながら同僚を説得。2005年、チーム医療を本格的にスタートさせた。
乳がんの患者は、30代の後半から急に増え始め50台でピークを迎える。この年代の女性は、母として、妻として、仕事人として、社会的役割は多きい。それだけに、自分の体だけに構っていられず、病気による悩みも深くなる。
ある患者は、子供に病気の事を知らせずに入院した。がんの治療には、家族の応援が必要だ。中村は、彼女の気持ちを汲み取り、人生に寄り添いながら、治療と人生のサポートをしょうと試みる。
医師の仕事は、「ただ治療すればいい」ではなく、患者の心に寄り添っていきたいと中村は言う。
~がん克服のために~
1963年 東京生まれ
1987年 東京大学薬学部卒業後、大阪大学医学部に学士入学
1991年 大阪大学医学部卒業、同大でインターンシップを終了後、兵庫県伊丹市立病院で研修医
1995年 マイアミ大学医学部にてクリニカル・フェローとして勤務
1997年 同大小児移植外科准教授 2007年教授
2008年 コロンビア大学医学部外科学教授
最先端の臓器移植手術を数多く手がけるとともに、ほかの病院では「手術不可能」と診断されたがん患者を救ってきた。その手腕は「神の手」との尊称で呼ばれる。
加藤の名を世界に轟かせた手術の一つが世界初の「多臓器体外摘出腫瘍切除」手術だ。つまり「もう切ることができない」と診断された場所に出来た腫瘍を取り除くため、内臓(胃・すい臓・脾臓・肝臓・大腸・小腸)をいったん全部外に出して(当然、血管も全て切離す)腫瘍を取り除いた後、再び臓器をおなかの中に戻す。血管も再び縫い合わせるという、気の遠くなるような大手術だ。
この手術は、2008年に63歳の女性に、2009年には7歳の女の子に行われ、ニューヨーク・タイムズ、CNN,ABCといった米国の主要メディア、さらに世界の報道機関が「日本の天才ドクターが世紀の大手術に成功」と大々的に報じた。
複数の内臓にまたがる移植手術や腫瘍切除のエキスパート。移植手術は2000件を超える。多内臓が絡むと、30時間以上ぶっ通しの手術になることも。世界中からがん患者の問い合わせも、後を絶たない。
●~おなかの中の全部外にだすんですよね~
加藤 胃・すい臓・脾臓・肝臓・大腸・小腸ですね。
●~おなかの中は、空っぽになるんですね~
加藤 完全に空っぽです。普通の外科手術では見たことのない景色です。術後患者さんに本人の手術時の写真を見てもらうのですが、かなりびっくりされていました。
●~そんなに出して、体の中は危なく無いんですか~
加藤 一定の時間があれば問題ありません。体外に臓器を摘出するためには、まず、全ての臓器を体に付着している部分から剥がさなければなりません。これは繊細に丁寧に、剥離しては止血する作業になります。
最終的には大動脈(全身の血液の大もとになる太い動脈)、大静脈(同じく太い静脈)以外を全部ぶらぶらになるところまで剥離してから、この大きな血管(大動脈と大静脈)を切ります。そして、6つの臓器と、腫瘍に絡みついた血管部を一緒に、体の外に出してしまうというわけです。
●~太い血管も細い血管も全て切って、一つ一つ止血。気の遠くなる様な作業ですね。おなかの中はどうなっているのですか~
加藤 臓器を出した後、重要な血管は「ゴアテックス」という、レインウエァなどにも使う素材の人工血管で置換し、血流を再開します。そうすると、心臓からおなかの中の方へ行っていた血流が再び足元まで流れるようになります。
●~血液は、おなかの内臓をスルーしても、ちゃんと全身を循環していれば問題ないのですか~
加藤 最長6時間、少なくとも4時間は問題ないと思っています。万が一、体外で腫瘍を切る時間が延び6時間を超えた場合も、低温冷却することで対処は可能です。ただその時は、人工心肺の準備が必要になる。低温による心肺停止の可能性が出てくるからです。
●~体外に出された臓器はどんな状態になっているのですか~
加藤 内部に残った血液を全て抜いた状態で、4℃に保った特殊な保存液に漬けておきます。この保存液は臓器移植の現場で磨かれたもので、10時間までなら臓器にダメージが残らないと考えられています。移植手術の際、臓器を輸送する時にも使われているんですよ。
●~では、腫瘍の切除は保存液に漬けたままやるんですね。~
加藤 そうです。体外に摘出した臓器にも体にもダメージを残さない時間内に腫瘍を切除して、血管を再建する。そして臓器を患者さんの体に戻し、血管を吻合(ふんごう)し、血流を再開させる発想です。
●~おなかの臓器を全て外に出しても元気なんて!人間の体ってすごいですね。
加藤 不思議でしょう(笑)。この手術の1回目の患者さんの病名は「平滑筋(へいかつきん)肉腫」といって、決して難治療ではないのですが、彼女の場合は腫瘍のできた場所が悪かった。約7㌢の腫瘍が、大動脈から腹部の内臓に血管を送る大きな血管を巻き込んでいたのです。
しかも、背中に近い、体の深い場所に腫瘍があって、辿り着くのが極めて難しく、ほかの病院では切除不可能としんだんされたんです。そこで僕は腫瘍を臓器ごと外に一回出しててしまえばと考えたわけです。
●~あらためて聞いても、やはりとっぴな発想と思えますが~
加藤 話だけ聞くとそう感じるかもしれませんが、それ程発想飛躍はないんです。というのも、僕はそれまでに多くの移植手術を手掛けてきました。日本に比べ移植手術の件数が圧倒的に多いアメリカでは(日本・年平均300件 アメリカ年平均2万2千件)、臓器を全て取り出す多内臓移植も珍しくない。
一方で、腫瘍の外科手術においても、臓器を体外に取り出す手法はあった。僕は、臓器移植と腫瘍、双方の外科手術を経験してきたから、両方を組み合わせる発想が出来たんだと思います。
●~先生はやはり、もともと器用だったんですか~
加藤 器用な方だったと思います。確かに外科医には、繊細さや器用さは不可欠です。しかしそれも才能ではなく、やはり基礎の積み重ねなんです。実際、若い研修医を見ていても、将来、力を発揮できるかどうかは見えてきます。例えば、傷口のガーゼ交換ひとつでも、完ぺきにこなそうとする人は将来伸びてくる。点滴の針を刺すことにおいても同様で、針に入れ方で患者さんの感じる痛さもだいぶ変わるんです。入れた瞬間に、針が血管の奥側に触れると痛いんですよ。この微妙な力加減を意識して練習できるかできないか。
だから大事なのは、その場その場で自分に与えられたことを完ぺきにこなすことです。人より早くでなく、人よりうまく丁寧にこなすこと。これが大事で将来につながっていきます。
●~手術は12時間を超えることもあるそうですが~
先ほどお話しした手術の場合、腫瘍の切除と再移植にかかったのは1時間半ほどでしたが、トータルの時間は15時間でした。これは、臓器を体の組織から丁寧に剥がし、1㍉以下の血管に至るまで丹念に止血するといった細かい作業に時間を掛ける為です。手術時間が長時間になっても、止血が最小限に済めば、その後の回復が早くなるからです。
●~今のところ、最長としての記録は~
加藤 30時間ですね。
●~30時間って、一日以上ですよ!集中力ってそんなに持つものなんですか~
加藤 僕も、以前は12時間を超える手術はすべきでないと思っていました。だけどある時、非常に困難な腫瘍手術を引き受けて実際に開けてみたところ、状態が非常に悪く、12時間以内に収まりそうになかった。それでも僕がやらない限りだれもやってくれないわけですよ。終わったら24時間を超えていました。この時、自分の中の12時間というリミットが一気に吹っ切れました。
●~自分で外したのではなく、経験によって自分のリミットをはずしたんですね。休憩は取るんですか~
加藤 15分から20分ほどの休憩を何度か。少し横になったり、何か食べたりします。
●~何を食べるんですか~
加藤 ポテトチップスやチョコレートなど食事というより、栄養補給です。
●~眠くは無いんですか~
加藤 不思議とないんですよ。手術でない時24時間連続で起きているのは辛いですが、手術室では違うモードに入るんでしょうね。トイレにも行きたくないですから。
世界を驚嘆させた奇跡の手術を成功させた加藤医師だが、あくまでも「基礎の組み合わせ」だったと謙虚に語る。彼は「神の手」といった呼び方に対しては、心ならず戸惑いを感じているようだ。
そうは言えど、いったん切り離した太さ1㍉以下の血管を縫い合わせ、細かく丁寧に針糸をかけて止血していく(最も多い時は、一度の手術で5000本以上)その技術はやはり「神の手」と呼びたくなる。
●~最後に先生のモットーをお聞かせ下さい~
加藤 どんなオファーでも、簡単に「No」と言わない。それで得られたものがいくつもあります。人生の幅も広がりました。駄目だと思っても、何か方法は無いか、少しは考えてみる癖をつける。既存の考え方にこだわらず、時には枠からはみ出して考えてみることです。そうすると、その先に自分のスタイルが見えてくると思うんでよす。それと、僕の持っている技術を多くの後輩に伝えたい。難度の高い医師が増えれば、それだけ助かる患者さんも増えますから。
加藤さんは時折ジーンズで病院に出勤することもあるそうだ。
白衣を着て、いかにも「権威」という雰囲気を醸し出すのも嫌う。患者さんに「この人はすごい人だ」という先入観を抱かせない様、ざっくばらんに話が出来る様、素朴な質問が出せる様、そして信頼関係が構築できるように出来るだけ、白衣を着無いようにしていると言う。
高額医療が望めないベネズエラの患者のため、10年程前から週末は現地に飛び、移植手術に携わっている。
いつまでもお元気で、世界中の患者のためにその技術を後輩の医師に伝授されますように!
~がん克服~
内視鏡のルーツは、古代ギリシャ時代にさかのぼる。「医聖」と呼ばれるヒポクラテスの全集には、痔の治療のために肛門に鏡を差し込んで直腸を観察した記述が残されている。
1805年 ドイツの医師ボッチニが金属製の筒を尿道や直腸、咽頭に入れてランプの光で観察する「導光器」を作成。
1853年 フランスの医師デソルモが尿道や膀胱を観察する器具を作成。エンドスコープ(内視鏡)と命名。
1868年 ドイツの医師クスマウルが長さ47㌢直径13㍉の金属管を大道芸人(剣を飲み込む芸人)の胃に差し込み、手元のランプを頼りに、世界で初めて生きた人間の胃を検査した。
1932年 ドイツの医師クスマウルが先端に豆電球をつけた「軟性胃鏡・長さ75㌢、直径11㍉」を開発。
その後、管の先に小型カメラを付けた胃カメラの原型も登場したが、画像が不鮮明で実用には使えなかった。
1949年 東京大学病院小石川分院の宇治達郎医師が、カメラメーカーの「オリンパス」に胃カメラの制作を依頼。
1950年 オリンパスの技術陣が世界で初めての「胃カメラ」の試作機が完成。だが、胃の中でストロボをたき、感光させたフイルムを抜き取って現像する仕組みだったため、診断に時間がかかった。
1964年 胃カメラにガラス繊維を導入したファイバースコープ型内視鏡を開発。生の映像を観察が可能に。
1960年代後半 先端にポリープを切断するハサミが取り付けられる。この時点で内視鏡は観察器具から治療器具となった。
1985年 内視鏡の先端に電荷結合素子(CCD)を取り付けたビデオスコープが国内販売になり、複数の医師の同時観察が可能になる。
1987年 フランスの外科医モレが、ビデオスコープの映像をモニターで見ながら胆のう摘出手術に成功。
1991年 内視鏡を用いた胃の切除手術が開始される。
1992年 内視鏡を用いた胆のう摘出手術が国内で保険適用になる。
1997年 イスラエルの研究者がカプセル内視鏡の原型を発明。
2012年 内視鏡手術支援ロボット「ダヴィンチ」の前立腺がん治療が保険適用になる。
2014年 8Kカメラを搭載した内視鏡で初の胆のう摘出手術。
2015年 ソニーとオリンパスが4Kカメラ搭載の内視鏡を発売。
「胃カメラ」の開発は、1949年に東大病院の宇治達郎医師がカメラメーカーの「オリンパス」に開発を依頼したのが始まりだった。その年、新入社員で開発部門に配属された中坪寿男さん(同社元専務・86歳)は、宇治医師が「胃がんを早期発見できれば、多くの患者を助けることができる」と会社に粘り強く説く姿をよく覚えていると話す。
長い間、胃がんは日本人のがん死因のトップであった。それが、この半世紀で胃がん死亡率は8割も減ったことは、内視鏡の進化と無縁ではない。1949年に「胃カメラ」を手掛けた「オリンパス」は消化器内視鏡で世界の7割のシェアを誇る。
昨年11月、杏林大学病院で世界で初めて「8Kカメラ」を搭載した内視鏡を用いた胆のう摘出手術が行われた。大型モニターには患部の細い血管や薄い粘膜の映像が映し出された。血管を誤って切るなどのミスの軽減が期待される。産学連携で開発を進める千葉敏雄・日本大学総合科学研究所教授は「人間の限界を超える《目》を手に入れた。今後この目に見合う《手》、つまり超精密な治療ロボットが求められていくことになる」と話す。
~がん克服のために~
がんの中には、数は少ないが遺伝子由来のものがある。そのような遺伝性のがん診療に、地域の病院が協力して取り組もうというネットワークが各地で発足している。どこでどんな検査や手術ができるかなどの情報を病院間で共有し、患者に早い段階で治療の選択肢を示すのが目的だ。
遺伝性腫瘍の多くは、細胞のがん化を防ぐ「がん抑制遺伝子」の変異で「がん化を阻止するブレーキ」の働きが悪くなるのが原因。遺伝子性でなくても、がん抑制遺伝子の変異が重なってがんになることは少ないが、遺伝性の場合、生まれつき遺伝子の一部に変異があり、がんになるリスクが高い。これまでに乳がん、卵巣がん、大腸がんなどの遺伝性がんがみつかっている。
医師は、発症年齢の若さや親族にも発症者がいること(家族歴)などを手掛かりに遺伝性の可能性を判断する。築くのが早いほど、本人の家族に遺伝性カウンセリングや遺伝子検査、手術などを伝え、示せる選択肢が広がる。
例えば、遺伝子性乳がん卵巣がん症候群(HBOC)の場合、検査で遺伝子変異が分かれば、計画的検診でがんの早期発見を目指すことや、発症していない側の乳房の切除や卵巣摘出などの処置も可能になる。米女優のアンジェリーナ・ジョリーさんは、全く発症していない段階で両方の乳房と卵巣を摘出している。
最近まで遺伝子性のがんに対する関心は低かったが、各地にネットワークがが形成されている。東海地方で、複数の病院の相談業務に携わる認定遺伝子カウンセラー7の大瀬戸久美子さん(30)は「数年前のカルテを見て、最初に家族歴を聞いて遺伝子の話をしていれば、もっと良い選択肢を示せたのではないかと思った例は沢山ある」と話す。一方、「遺伝子ではないか」と思う患者がいても、全てその病院でその先の対応が出来るわけではない。
東海地方では、遺伝子由来のがんに関心を持つ医師やカウンセラーらが中心となり、2013年にネットワークを完成した。現在は愛知、三重、岐阜、静岡から約20の医療機関が参加し、主にHBOCの治療で連携している。
例えば、あるがん患者が、家族歴から遺伝子性と疑われた場合、詳しい検査とカウンセリングが出来るネットワークの病院を紹介する。その後の治療はさらに別の病院ですることもある。大瀬戸さんは「地域全体で一つの病院となることを目指している」という。ネットワークの代表を務める愛知県がんセンター中央病院の岩田広治乳腺科部長は「がん全体に占める遺伝性腫瘍はそれほど多くなく、一つの病院で診断から治療まですべての体制を整えるのは合理的でない。複数の病院で情報を共有して役割を分担する方がより効率的だ」と話す。
北海道では、札幌医大や北海道がんセンターを中心に昨年から連記を開始した。メーリングリストを作り、道内外の80人の医療者がHBOCの遺伝子検査や手術に対応できる施設の情報を共有する。
吸収も、九州がんセンターが中心となって今年、約30施設がネットワークを発足させた。
遺伝子性腫瘍の知識を専門外の医療者に広く伝える取り組みも始まった。7月下旬、大阪市の医学研究所北野病院で開かれたセミナーもその一つ。参加した医師から「今後必要になる知識だと実感した」との声が聞かれた。
主催者の一人だった大瀬戸さんは、「遺伝子検査やカウンセリングは特別なものではなく、日常の健診に近づいています。知らないではすまないと、危機感を持ってもらいたいです。」と話す。
~がん克服のために~
このほど、国立がん研究センター(東京都)の本田一文ユニット長らのグループが、英科学雑誌サイエンチィフイック・リポーツに、「手術が可能な比較的早期のすい臓がんの目印となる物質を特定した」と発表した。
膵臓がんは、発見が難しく、難治療の代表格だ。自覚症状もなく発見された時は末期ということが多い。現在CA19-9という物質を目印として使うことがあるが、早期での発見には適しないと言われている。
グループは米国立がん研究所との研究で、コレステロールの形成に関与するたんぱく質「ApoA2」の一種が、ステージ(進行度)1や2のすい臓がん患者の血液では、健康な人の6割まで減少している事を確認した。日本人の血液検体でさらに調べると、早期のがんのほか、慢性膵炎など、がんにつながる危険性がある病気も識別できたという。
実用化が可能か。高価な機械を使わなくても血液検査ができるキットを作成。神戸大学と協力して、健康診断の受診者のなかで、希望者に健診を受けてもらい検証を始める。
~がん克服のために~
熊本県生まれ。昭和57年東京女子医科大学医学部卒業。63年熊本大学医学部大学院終了後、放射線科専門医・高濃度ビタミンC点滴療法専門医などの資格を取得。平成13年に静亜鉛三島市に吉村眼科内科医院を開業。26年12月東京港区高輪にクリニック真健庵を開業。がん、生活習慣病などの難病に苦しむ患者の治療と予防医学を行っている。35年間で癌や難病の患者を1万人以上診てきた。がん・心筋梗塞・脳梗塞・糖尿・高血圧等の患者の来院が後を絶たない。
吉村先生は、開業する医院の名前を「クリニック真健庵」と命名した。それは、「真剣に健康を考える所」というコンセプトのもと、患者自身が自分の体の真実を知って、心身ともに本来の健康を取り戻す・・。癒しの空間を提供するため、最先端医療機器を取りそろえる一方、囲炉裏(いろり)や日本庭園、キッチン、食卓など病院でなく家にいるような雰囲気を醸し出している。
吉村 人間が生命活動を維持するために重要な酵素は、37度で最も活性化すると言われています。また、ほとんどの病原菌が37度の体温では死滅することも分かっています。
ところが、最近では平熱が36度を下回る低体温の人が非常に多くなりました。これは数字を見ると一目瞭然で、1957年の統計では36.89度だった日本人の平均体温は、今は36.2度。半世紀で0.7度も下がっているんです。体温が1度下がると体の免疫力は3割低下するといわれていますから、0.7度という数字は決して小さくありません。
吉村 がん細胞は低温を好む性質があって、特に活発に増えるのが35度前後、逆に42度の熱で死滅することが明らかになっています。熱を利用してがんを退治するのが温熱療法であり、当院で導入しているマイクロウェーブがん治療もその一つです。
また体温が下がるというのは簡単に言えば、血液がドロドロ状態になる、血流が悪くなるということです。心臓の血流が悪くなると心筋梗塞になります。それが頭の場合は脳梗塞になる。肩こりだって血液がうっ血しておこりますから、がんだけに限らず、全ての疾病に関係しているんです。
吉村 三つの原因があります。一つは「生活環境の変化」二つが「食習慣の変化」。三つが「運動量の低下」です。まず「生活環境の変化」ですが、昔は風通しの良い木造家屋が多く、夏でも涼しく過ごすことが出来ました。一方、今の建物はコンクリートで密閉された構造のため、熱がこもりやすく、夏は常時冷房していないと生活できないくらいです。夏は汗をかいて熱を逃がさないといけないのに。冷房の中にいると毛穴は閉じて血管も縮んでしまう。その上長時間のデスクワークで血流はさらに悪くなります。また、室内外の温度差が激しいため、体温調節の機能が不安定になり、自律神経にも異常をきたしてしまいます。
「食習慣」に関して言いますと、戦後日本人の食べ物はガラッと変わりました。もともと日本人は味噌や醤油などの発酵したもの、玄米や雑穀、魚、海藻をよく食べていましたが、戦後は食べ物も欧米化し、パンやスパゲッティ、お肉など消化の悪いものを食べるようになったのです。また、レトルト、冷凍、インスタントなどの手軽で安価な加工食品が多く出回るようになりました。これらの食べ物には塩分や糖分、脂肪、防腐剤や人工甘味料といった添加物が多く含まれています。それを電子レンジでチンすれば食べ物を熱エネルギーに換えるのに必要なビタミンやミネラルなどの栄養素は壊れるんです。
それから、体を冷やす食べ物を一年中食べることも挙げられます。昔の人は、夏になると旬のトマトやキュウリ、なす、メロンなどを摂取し、火照った体を冷やしていました。反対に、秋冬に旬を迎えるダイコン、ニンジン、ゴボウ、レンコンなどの根菜類は体を温めます。
ところが、スーパーには一年をとおしてすべての野菜・果物が並んでいます。バナナやパイナップル、マンゴー、キウイといった体を冷やす南国系の果物もそうです。旬のものを食することは大事です。
あとは、白砂糖や食塩は減らした方がいいです。天然の塩はマグネシウムやミネラルが入っているから適量なら問題ないですが、食塩は(Nacl)は化学調味料だから駄目です。また、欧米では厳しく規制されているのに、日本では全く規制されていない、体を冷やす代表格がトランス脂肪酸です。
これはアレルギー疾患や糖尿病、動脈硬化、心臓疾患、がん、不妊の原因と言われているにもかかわらず、マーガリンやマヨネーズ、スナック菓子、ケーキ、ドーナツ、菓子パンなど実に多くの馴染み深い食品に入っています。自然の食材で自然の味を楽しむことが大事です。自然に即した食生活・生き方をすると体が喜ぶんです。
吉村 今から10年ほど前のことです。2001年から静岡県三島市で開業していたのですが、その当時はストレスがものすごく強くて、ほとんど寝てない状態でした。私の医療法に共感してくれる医師はいなかったし、医師会からも異端児のように見られていました。例えば高濃度ビタミンC点滴療法でも、治療効果が認められている論文があるのに、私がその治療をしていたら、「あなたは患者さんに何をしているのですか」「それでも医者ですか」ってメチャメチャな言葉をはかれました。プライベートでも、父と叔父が立て続けに亡くなり、主人ともうまくいかなくなり・・もうこのまま死ぬかもしれないと思うくらいストレスは最高潮でした。
その頃、胸にしこりがあると感じていましたが、放っておいたんです。と言うよりも自分の事を構う暇がなかった。精神的にボロボロの状態でも末期のがん患者さんを診なくてはいけなかったから。やっとひと段落した時にはしこりがすごく大きくなっていたんです。それで初めて病院に行き、自分でも分かってはいたんですが念のために検査をしたら、左右両方に浸潤があり、リンパ節にも転移していました。私自身は手術はしたくありませんでしたが、息子の言葉に手術だけはしました。その時に、今当院で取り入れている治療をすべてやりました。そうやって免疫力を高め、体温を上げたことで、10年経ったいまでも再発はありません。
ですから、すべて自分が体験して、ここのクリニックのやりかたを確立したのです。
吉村 一部の先生たちは、西洋医学だけでは病気は治せないと気付いて代替療法をとりいれていますが、大半のお医者さんは、そういう勉強をしないで代替え医療は効かないなどと平気でおっしゃいます。例えば、抗がん剤治療で何人治ったか、ちゃんとしたデーターがないんですよ。一時的には治ったように見えるだけで、後々再発することが多い。そのあとは三大治療はお手上げで、ホスピス行きが多い。
こういう患者さんもいらっしゃいました。大腸がんの患者庵で、高濃度ビタミンC点滴療法で回復してきました。良くなってきたものだから、もとの主治医の所に行ったんです。そうしたら「いま抗がん剤をした方がいいですよ」と。私は絶対しないように言いましたし、本人もしたくなかったようでしたが、奥さんと息子さんに説得されてやってしまった。その方は不幸に抗がん剤を点滴してから、2週間後に亡くなられました。
その一方、末期の胃がんでもう何もすることは無い(打つ手はない)と言われ、うちに来ましたが、それでも私の言う通りに治療をしていったら半年ですごく元気になって、再検査をしたらがんが消えてしまっていました。他にも、乳がんの骨転移で車いすに乗っていた患者さんがいました。その方は抗がん剤治療をしていたが治らないと言う事でうちに来ました。歩けなかったんですが、今ではダンスが出来るくらい回復しました。