がん克服【乳がん手術のエキスパート】
- 2015年11月27日
- がんの名医
昭和大学医学部外科学講座乳腺外科部門教授
昭和大学病院ブレストセンター長
中村清吾(なかむら せいご)先生
1956年 東京浅草に生まれる
1993年 千葉大学医学部卒業 聖路加国際病院外科で研修
1997年 聖路加国際病院外科副医長
2001年 第8回乳がん学会久野賞受賞
2003年 聖路加国際病院外科医長
2005年 同 ブレストセンター長・乳腺外科部長
2008年 千葉大学医学部臨床科准教授兼務
2009年 プロフェッショナル仕事の流儀第121回「人生によりそいがんと闘う」出演
2010年 昭和大学医学部外科講座乳腺外科部門教授・同病院ブレストセンター長
年間700件以上の乳がん患者を手術
中村が率いる診断と治療の専門センターは、乳がんの手術数が700件を超える、日本屈指の多さを誇る。センターを立ち上げて、育て上げた。しかし、治療には常に謙虚さを持って向かう。
「医師は、謙虚であれ」
「自分の診断は本当に正しいのか」「これで間違いはないか」。中村は患者の声に真摯に耳を傾け、少しでも疑問が残る場合は、同僚に意見を求める。そして、その姿勢を若手医師にも伝えようとしている。「白衣を着ていると《先生》と思われるかも知れないけど、それに溺れてはいけない、もっと謙虚でなくてはいけない」と中村は言う。謙虚さを失うと、医師としての成長が止まってしまうと考えるのだ。
父の姿を見て医師の道へ
中村は、東京浅草で生まれ育った。父は浅草で名を知られた鍼灸師(しんきゅうし)だった。いつも、患者の愚痴や悩みを聞きながら、時には厳しく、時には優しく対応していた。中村は、そんな父の後ろ姿を見て育ち、医師の道を志した。
外科の道に進んだ中村は、いつか病気を「治す」ことばかりに目を向けるようになってしまい、いつの間にか、患者の「声」に真摯に耳を傾ける姿勢を忘れてしまっていた。
忘れることができない患者の最期
ある時、幼子を連れた再発患者が中村を頼ってやってきた。「一日でも長く生かせてあげたい」。しかし、抗がん剤を次々に投与しても効き目はなく、副作用の厳しさだけが彼女を襲った。そして彼女は「子供の世話をしたい」と言いながら、苦しみながら息を引き取った。中村は「自分のやり方は本当に正しかったのか」と、深く悩んだ。
乳がんの先進国、アメリカで勉強したい
中村は、救えなかった命を真摯に受け止め、乳がんの先進国であるアメリカでの研修を希望し、アメリカへ向かった。ここで中村は、一人の患者をたくさんの専門医でともに診る「チーム医療」というのを知る。
彼らは治療だけでなく、患者のその後の生活まで見据えて相談にのっていた。
日本に帰った中村は、時間を掛けながら同僚を説得。2005年、チーム医療を本格的にスタートさせた。
患者の人生によりそう
乳がんの患者は、30代の後半から急に増え始め50台でピークを迎える。この年代の女性は、母として、妻として、仕事人として、社会的役割は多きい。それだけに、自分の体だけに構っていられず、病気による悩みも深くなる。
ある患者は、子供に病気の事を知らせずに入院した。がんの治療には、家族の応援が必要だ。中村は、彼女の気持ちを汲み取り、人生に寄り添いながら、治療と人生のサポートをしょうと試みる。
医師の仕事は、「ただ治療すればいい」ではなく、患者の心に寄り添っていきたいと中村は言う。
~がん克服のために~
コメントを残す