あん多くの激励メッセージが届く
元プロレスラーでタレントの北斗昌(48)が自身のブログで乳がんを公表し、9月24日に右乳房全摘手術を受けた。術後は順調で、おしどり夫婦として知られる夫の佐々木健介(49)と2人の愛児が献身的に看病を続けている。
毎年秋に乳がんの検診を受けていたそうだが、今年は異変を感じて初夏に前倒し。うつ伏せになった特に右胸に痛みを感じ、春に旅行に行った際には鏡で見ると右の乳房の位置が中心になくて、引きつってるいるように見えたという。
検査の結果、乳房の真下近くに直径2㌢大の腫瘍が見つかり7月7日にがんを告知された。右乳房の全摘出には抵抗もあったが、それでも「愛する子供たちの白髪の生えた顔が見たい。パパといつまでも手をつないで歩きたい」と前を向き、手術を決意するに至る胸中をブログでつずった.。
さらに「脇のリンパにまで転移している可能性がある」とも明かし、抗がん剤治療も始める予定。北斗は「5年先、10年先を生きるためにながい闘い入ります!必ず戻ると現時点では言えませんが…今は”またね!”と言わせてください」と復帰を誓った。
手術は無事に終了。2日後の26日には北斗本人がブログを更新。やはり脇のリンパに転移していたため除去したことを明かしたうえで「自分の足でトイレにも行けるようになりました」と回復ぶりをアピール。それも「オッパイが片方なのは、洋服の上からでも分かるんだけど、どうしてもまだ自分では右胸を見る勇気がなくて・・見たら、パニックになっちゃいそうなので。もう少し落ち着いたら、気持ちをしっかり持って一歩進めれば」と複雑な心境をのぞかせた。
広い交友関係を持つ人だけに、多くの友人・知人が激励のメッセージを寄せている。その一つ一つが北斗の心に届いているだろう。焦らず、完治を目指して頑張ってほしい。
一日も早く、「がん克服」されますよう。
甲状腺がんは女性に多いがんだ。がんの中では手術後の生存率は高い方だが、実際に見つかれば、たとえ小さな腫瘍でも不安になる。どう対処すれば基本的なことを知っておきたい。
人間ドックで発見
東京都渋谷区の女性は7年前、人間ドックの接触とエコー検査で甲状腺の腫瘍が見つかった。甲状腺専門の病院を紹介され、腫瘍に針を刺して行う細胞診検査で大きさ1.5cmのがんと診断された。全身麻酔で首の一部を切開し、がんの部位を除去した。1週間の入院の後、1週間の自宅療養を経て職場復帰した。
女性は「がんと聞いて最初はショックだったが、がんの進行がきわめてゆっくりの為、手術で治りやすいと言われ安心した。切除部分が小さく、片側の甲状腺が残っているため、ホルモンの不足はない。今は半年ごとに血液検査や超音波検査を受け、様子を見ている」と話した。バイエル薬品が昨年10月、甲状腺がん患者565人に尋ねたところ、治療を受けるきっかけで最も多かったのは「人間ドックなどの健康診断」(約36%)だった。自覚症状としては「首にしこりがある」「のどに痛みがある」「物を飲みこむときに違和感があった」「声がかすれたり、出にくくなった」などが多かった.
体の新陳代謝を調節する
甲状腺はのど仏の下にあり、チョウが羽を広げたような形をしている。甲状腺ホルモンを分泌し、体の新陳代謝を調節する重要な役割を果たす。甲状腺がんはこの甲状腺にできる腫瘍。女性に多く40~60代でかかりやすい。国立がん研究センターによると、毎年約13000人がかかり、約1700人が死亡している。甲状腺がんにはいくつかの種類があるが、約9割を占めるのが乳頭がん。進行は遅く、首のリンパ節に転移しやすいが、肺などへの転移は少ない。
微小は経過観察も
特徴的なのは超音波検査の進歩と普及によって、小さながんが見つかりやすくなったことだ。がんと言っても、1cm以下の微小がんの場合は、すぐに手術せず経過観察する選択肢もある。微小がんは発見されなければ、小さいまま転移も無く一生無害に経過するタイプもあるからだ。甲状腺がんの治療で知られる筒井英光・東京医科大教授(甲状腺外科)は「微小がんが、そのままの大きさでとどまるか、2~3cmと大きくなるのかは、見つかった時点ではわからない。一般に急に大きくなることはないので、半年に一回超音波検査で様子を見ながら、明らかに大きくなったり、1cmをこえたりしたら、その時手術をしても遅くはない」と話す。
経過観察は不安という患者もいるが、きちんと検査を受けて売れば、1cm以下で手術しても、1cmを超えてから手術しても予後に差はないという。乳頭がんの場合、手術を受けた患者の10年生存率は90%以上と高い。ただし、大きさが1cm以下でも、気管や神経に近い場所にあるものや、あきらかにリンパ節転移のあるものは手術が必要だ。
専門医の診断重要 経験豊富な専門医を
都道府県別に実名で紹介
重要なのは甲状腺がんに詳しい、専門医に診てもらうことだ。日本内分泌外科学会と日本甲状腺外科学会は、手術経験の豊富な専門医制度を共同で設け、ホームページで都道府県別に実名で紹介している。筒井教授は「最近は、甲状腺がんに効果のある分子標的薬も登場しており、医師に必要な専門知識も大きく変化している」と、専門医への受診を勧めている。
~がん克服のために~
日本医科大学主任教授
森田明夫(もりた あきお)先生
昭和32年7月生まれ 東京大学医学博士
昭和57年 東京大学医学部卒業 東京大学医学部付属病院脳神経外科入局
昭和58年 広島県新市町寺岡記念病院勤務
昭和59年 三井記念病院勤務
昭和62年 静岡県富士宮市脳障害研究所附属病院勤務
昭和63年 都立神経病院勤務
平成 元年 米国ミネソタ州ロチェスター市に留学
平成 2年 米国連邦医師資格取得
平成 7年 ジョージワシントン大学脳神経外科頭蓋底外科・施設長・教授
平成 9年 広島県新市町寺岡記念病院脳神経外科部長
平成10年 東京大学脳神経外科講師
平成13年 東京大学脳神経外科助教授
平成18年 NTT東日本病院脳神経外科部長
平成25年 日本医科大学脳神経外科主任教授
特殊専門 脳動脈瘤・脳腫瘍のスペシャリスト
頭蓋底疾患(脳腫瘍、脳血管障害)
聴神経腫瘍、髄膜腫の治療手術
脳動脈瘤の治療
脊髄・脊髄外科(脊髄腫瘍、ヘルニア)
定位脳外科(パーキンソン病等)
三叉神経/顔面麻痺の手術
年手術実績 世界有数の手術回数
●統計手術数 1269件
●未破裂動脈瘤手術 86件(うち血管治療12件)
●破壊動脈瘤手術 115件(うち血管治療 4件)
●脳虚血手術 915件
●脳腫瘍手術 211件
モットー 優れた研究を世界に発信
今を支えるための「臨床」、明日を支えるための「研究」、未来を支えるための「教育」があることを信ずる。「今後、さらに患者さんの為になる研究を進め、後輩たちが優れた研究を世界に発信できるように指導したい」
~がん克服のために~
平成21年5月中旬頃でした。化粧品のお世話になっている友人にエステに誘われ行ってみる事に・・。リンパの流れが悪くなっているからと、マッサージをしてもらい身も心も軽く帰途につきました。
まさかの 乳がん
途中で左胸が異常に熱を持ちはじめ、どんどん腫れて、夕方風呂に入ると乳房の真ん中あたりに3cm位の大きな固いしこりが出来ていました。今まで、体を洗うたび何もなかったし、自分はがんにならないと思い込んでいたのでビックリ・・・ショックでした。
同じ部落でがんの体験者である〇〇さんに相談すると、医大の放射線科に行くことをすすめられました。
早速受診すると、がんになって8年経っているし脇の下への転移もあるとの事でした。6月中旬に入院し、いろんな検査や抗がん剤の治療が始まり吐き気もひどく髪の毛も抜けてきました。
脇の下のがんが自然消滅 血糖値も下がる
そんな中、〇〇さんがある健康法のパンフレットを持ってきて、試してみてはとすすめてくれました。3回目の抗がん剤治療の後、思い切って飲んでみることに・・。
私には糖尿病の持病があって、手術時にはインスリンを打つ事を言われました。A1Cが6.7と血糖値が200近くあったのです。
朝・昼・夜の食前に3回飲んでみました。すると、1ヶ月もしないうちにA1Cが5.1と血糖値はなんと98まで下がり、脇の下にあったがんも消えていたので外科の先生もビックリ・・。血液もサラサラになりすぎ、手術前の血の止まる検査で5分位で止まるべき血が8分もかかってしまい、姫菊を飲むことを一時中断、3週間後にようやく手術可能になりました。いよいよ手術(もちろんインスリン無しです)、脇の下の転移していたところも念のため切り取り検査しましたが異常なしでした。
縁のつながり 運命を感じます
退院する時、同じ病室に千葉県から来ていた人が夫婦で糖尿病で悩んでいると聞いたので、この健康法の事を話すと早速注文して飲んだところ、ご主人の方は病院の薬が不要になり彼女も血糖値が下がり無事手術を終え、素晴らしい健康法を教えてくれてありがとうと、心から感謝されました。
思い返すと、あの時エステに行かなければがんの事はまだ知らずに、もう手遅れになつていたでしょう。そして姫菊の事を知らなければ、こんな良い結果を得られなかったでしょう。〇〇さんと教えて頂いた健康法に感謝感謝。いろんな縁のつながりを感じる今日この頃です。当初の目的の生存率5年をクリアして、次の目標の女性の平均寿命に向かいお世話になります。悩んでいる人があれば、教えてあげたいと思っています。これからも宜しくお願い申し上げます。
~がん克服のために~
旭川赤十字病院脳神経外科顧問 禎心会脳疾患研究所所長
上山博康(かみやま ひろやす)先生
1948年 青森県生まれ。
1973年 北海道大学医学部卒業 同大学脳神経外科入局。その後旭川、釧路、美唄などの関連医療機関で6年間研修した。旭川赤十字病院で研修中には毎晩顕微鏡を使い、ネズミの血管を縫う練習をした。その後、函館の国立療養所に脳神経外科を開設するため赴任した。
若いころから手先は器用で、手術には自信があった。29歳の時、一人の医師の手術を見て衝撃を受ける。
伊藤善太郎、全国的に知られた脳卒中のエキスパート。流れるような針の捌きに上山は目を見張った。自分もこんな手術が出来るようになりたい。
1980年 伊藤善太郎に弟子入りするために、国立療養所から秋田脳血管研究所へ転勤し伊藤のもとで働くことにした。伊藤の手術に立ち会い、その技術を懸命に学んだ。
伊藤からは技術の他、医師としての心構えも学んだ。「患者さんは命を懸けて医師の許にやって来る、だから医師もかくごがいる」それが上山の信念となった。
1985年 伊藤は志半ばで急逝する。上山は伊藤の死後北海道大学に戻り脳神経外科の助手になる。その後、脳動脈瘤手術数でギネスに登録される経歴を持つ、藤田健康衛生大学の佐野公俊に手術の相談や指導を受ける。
匠の手を持つ脳外科医 その腕を頼りに
全国から患者が集まってくる
そして旭川赤十字病院の脳神経外科部長になり、「患者さんが人生をかけてやってくる、僕は医師の命を懸ける」をモットーに自分の力が必要と言われれば日本中の病院に足を運び、脳血管手術や脳腫瘍の摘出手術など手がける。脳動脈瘤のクリッピング手術では年間300件以上/累計20000件ほどの手術をこなし、「脳血管に関わる手術で日本一」「匠の手を持つ脳外科医」と呼ばれるようになり、全国から患者が訪れるようになった。手術器具の開発にも力を入れ、特に上山式ハサミは今や全国の脳外科医がつかっており、上山が描いた脳外科手術のイラストも医学書に使われている。
「神の手」福島孝徳先生も絶賛
世界中から「神の手」「ラストホープ(最後の切り札)」と呼ばれる脳神経外科医・福島孝徳先生も、「もし僕が脳血管の手術を受けるなら上山先生にしてもらう」と発言するなど、その技術は同じ脳神経外科の先生の中でも際立って賞賛されている。
~がん克服の為に~
ホワイトジャックと呼ばれた男 藤田保健大学名誉教授
佐野公俊(さの ひろとし)先生
1945年 東京都に生まれる。
1970年 慶應義塾大学医学部卒業
1971年 慶應義塾大学医学部脳神経外科入局
1976年 藤田保健衛生大学赴任
1977年 藤田保健衛生大学医学部外科学科講師
1980年 藤田保健衛生大学脳神経外科助教授
2000年 藤田保健衛生大学脳神経外科教授
2001年 藤田保健衛生大学脳神経外科救急部教授
2003年 救命救急センター長
2004年 藤田保健衛生大学脳神経外科主任教授
2010年 総合新川橋病院副院長・脳神経外科顧問
藤田保健衛生大学名誉教授・藤田保健衛生大学脳神経外科客員教授
世界脳神経外科連盟 脳血管障害部門委員長
ギネス記録を保持するドクター
医師の祖父と叔父に憧れて、慶応大学医学部に入学。研修医時代に耳鼻咽喉科に研修に回ったとき、耳鼻咽喉科の手術に使われていた手術用の顕微鏡を脳外科手術でも使えないかと思い、脳外科医を目指した。だが、当時の日本では脳外科手術に顕微鏡は使われていなかったため、脳外科顕微鏡手術の豊富なアメリカに留学する予定だったが留学しなかった。一般外科の研修を行った後、慶應義塾大学で脳神経外科の研修に入った後脳神経外科に入局した。
1970年、日本に顕微鏡を使った脳外科手術が導入されると同時に、顕微鏡時代を予言し自費で顕微鏡を購入した。慶應義塾大学で手術器具を開発しながら多くの脳動脈瘤のクリッピング手術を経験した。
くも膜下出血の原因となる脳動脈手術は3500例以上も行い、200年、2001年のギネスブックに掲載された。
全ては患者の為
モットーは、「自分が患者だったら、やってもらいたいような手術をする」「丁寧できれいな手術を心がけ、次世代に伝える」こと。
世界でも極めて少ない無血手術が出来る腕を持っており、「神の手・仏の心を持つ医師、ブラックジャックならぬホワイトジャック」と呼ばれる高度な技術と、医師としての心構えに心を打たれ、師事する医師が後を絶たない。旭川赤十字病院の上川医師も薫陶を受けた一人である。
佐野先生の現在
藤田保健衛生大学退任後も、困難な症例のオペを藤田保健衛生大学で、川崎市にある総合新川橋病院では週2回の手術。静岡県の藤枝平成記念病院、豊川市の青山病院でもオペを行っている。名古屋脳神経外科クリニック・ジャパン藤脳クリニック・愛知腰痛オペセンター等で診察・外来診療も行っている。
がん克服・脳疾患治癒の為、いつまでもお元気で世界の腕を惜しみなく奮って戴きたい。
~がん克服のために~
愛知県がんセンター総長 名古屋大学大学院腫瘍外科学教授
二村雄次(にむら ゆうじ)先生
1943年 生まれ
1969年 名古屋大学医学部卒業 附属病院分院にて卒後研修
1970年 安城市八千代病院 外科医員
1973年 癌研究会附属病院 外科研修医
1974年 名古屋大学医学部付属病院 第一外科医員
1978年 名古屋刑務所医務部 法務技官
1979年 名古屋大学医学部 第一外科 助手
1980年 名古屋大学医学部 第一外科 講師
1985年 名古屋大学医学部 第一外科 助教授
1987年 米国カルフォルニア大学ロサンゼルス校文部省在外研究員
1991年 名古屋大学医学部 第一外科教授
2000年 名古屋大学医学部付属病院 副病院長
2000年 名古屋大学医学部附属病院 院長
2002年 名古屋大学大学院腫瘍外科学科 教授
2007年 愛知県がんセンター 総長
賞歴
1996年 国際肝胆膵学会 ベストビデオ賞
1997年 高松宮妃癌研究基金学術賞
2005年 中日文化賞
主な公職等
日本外科学会会長・理事 日本癌治療学会評議員 日本胆道学会理事長 日本膵臓学会評議員 日本肝胆膵学会理事 日本腹部救急医学会評議員 日本消化器外科学会評議員 日本脈管学会評議員 日本臨床外科学会評議員 日本外科系連合学会評議員 日本消化器病学会財団評議員 日本静脈学会評議員 名古屋大学経営協議会学外委員 全日本柔道連盟医科学委員会副委員長
著書 1996年 肝臓の外科解剖(訳書)2000年消化器病セミナー・胆道疾患の診断と治療ー新しい工夫2005年 胆道外科の要点と盲点 2005年 胆道外科ーStandard & advanced techniques 2009年胆道外科の要点と盲点(Knack & Pitfalls)
胆道癌の権威 日本外科学会会長
肝門部胆管がんを中心とする胆道癌外科治療に関しては、難度の高い症例への対応、手術数、治療成績ともに世界有数の実績であり高い評価を受けている。胆道、肝臓、膵臓の沈黙の臓器と言われるがんの世界的な権威であり、現在世界から注目を集めている上坂克彦医師(静岡がんセンター副院長)など、多くの胆肝膵がんの医師を育てた。
~がん克服のために~
がん有明病院 消化器外科部長
佐野 武(さの たけし)先生
1955年 大分県杵築市で、400年以上続く名門の医師の家に生まれる。
1980年 東京大学医学部卒業
東京大学医学部付属病院第一外科を経て静岡県焼津市立総合病院勤務
1985年 フランス政府給資留学生としてパリ市キューリー研究所に留学
1993年 国立がんセンター中央病院外科勤務
1996年 国立がんセンター中央病院外科医長
1997年 国立がんセンター中央病院外科部長
1998年 有明病院勤務:現在に至る
日本胃がん学会理事・国際胃がん学会幹事・英国外科医師会の講師をはじめ、ヨーロッパ・南米・
アジア各国で胃がん手術の実演教育に精力的に取り組んでいる。
欧米が認めた日本の「胃がん定型手術」
佐野:世界の胃がん患者の6割弱は、中国、日本、韓国をはじめとする東南アジアが占めています。その中で、診断にしろ治療にしろ常に良いものを追求してきたのは日本。まず、ほかの国から新しいものが出てくることは無いでしょう。
しかし、今でこそ国際的にも信頼を得る治療法として認められつつある「定型手術=胃の2/3以上を切除しD2リンパ節郭清」だが、ずいぶん長い間リンパ節郭清は、日本だけのローカル・ルール的な扱いを受けてきた。その理由は、「日本は世界に向かって発信するのは下手、というか熱心でなかったから」。手順が誤ったまま「定型手術」が行われた例が少なくなかった。
世界に発信 自らスポークスマンに
日本の胃がん治療は、世界有数の技術を持ちながら、その成果を世界に向けて発信していない。
何とか、広く海外にも正しい「定型手術」を伝える事はできないか。欧米の患者は実際日本人と体格も違うし、いろんな要素を丁寧に検討する必要がある。まずは、同じテーブルにつくこと、相手の意見に耳を傾けること、そして根気よく説明する事を目指した。佐野先生は、自らを「スポークスマン」と任じ、「定型手術=D2胃切除」を携え、世界各地を駆け巡ってきた。技術のみならず、その意気まで伝えてきた。
佐野:僕の説明で「初めて理解できた」と言ってくれた海外の医師が何人もいます。
海外から研修に
佐野先生のまいた種は確実に実り、今も1年に10~15人程度の医師がイギリス、イタリア、南米などから研修にやってくる。特に英国外科医師会には「D2コース」(今年から食道がん・胃がんコースと名称変更)という口座があり、生徒は限定16人。教授陣は佐野先生を含め10人。短期間で、中身の濃い授業が行われている。
自分は一生臨床医
築地がんセンターから有明癌研(当時)へ
「あと10年、自分は医師としてどう生きるか」と自問、答えは「やっぱり自分は臨床医」。ためらいはなかった。あくまで自分の人生をつらぬこうと思った。昨年秋、15年務めた古巣を離れ一歩踏み出した。
唯一気がかりな事は患者さんの事。外来で受け持っていた患者さんには、全員自分で書いた手紙を残した。「無事に治療を終えられて、がんセンターを【卒業】されていくことをお祈りいたします」の一言を添えて。
がん克服の為今後のご活躍を祈念致します。
~がん克服のために~
幕内雅敏(まくうち まさとし)先生
日本赤十字社医療センター院長 東京大学名誉教授
1946年生まれ。父に憧れを抱き医師を目指す。
1973年 東京大学医学部卒業
1988年 国立がんセンター病院外来部外科医長
1989年 同上 手術部長
1990年 信州大学医学部第一外科教授
1994年 東京大学医学部第二外科教授
1997年 同上 肝胆膵外科、人口臓器移植外科教授
2007年 日本赤十字社医療センター院
東京大学卒業後一貫して肝臓外科を専門に
【世界の幕内】と呼ばれて久しい
東京大学卒業後、一貫して肝臓外科を専門とし、肝切除の分野では国内はもとより、世界的にもその業績は認められている。肝切除の術中に用いる超音波診断器の開発、肝臓の系統的区域切除術の開発、常にクリエイテブな発想で独自の道を切り拓いてきた。すい臓がんの手術で世界的に注目を集めている、上坂克彦医師(静岡県立静岡がんセンター副院長)も幕内医師が国立がんセンターに勤務中に指導を受けている。その実績と手術の精密さで「世界の幕内」と称されて久しい。
成人生体肝移植を世界で初めて成功
信州大学医学部教授時代に国内3例目の生体肝移植を行い、成人生体肝移植移植に世界で初めて成功。以後、生体肝移植の症例は500を超える。
患者さんのために、やれる事をやっただけ
幕内先生は「目の前の患者さんの為に、やれることをやっただけ」と言うが、三十数年間で2000人以上の命をつないでいる。〈神の手〉と言われるほどの卓越した技術力を持つ外科医を支えてきたのは、「当たり前の事をすること、誰にでも堂々と言える事をすること」。それと失敗から学ぶ謙虚さであり、失敗を克服するための工夫が大切という。東京大学医学部教授時代は年間300以上の手術をこなしていたが、現在は院長を兼ねながら週4~5例。生体肝移植はベテランの医師でも平均16時間ほどかかり、難しい場合は20時間を超える時もあるという。肝切除も長いものがあり、手術は患者もさることながら医師もスタッフも激務である。
24時間・365日医師であれ
医師は患者さんの為にある。患者さんの事を常に考えるのが僕たち医師です。「24時間・365日医師であれ」が私のモットーです。と幕内先生は諭す。
~がん克服のために~
静岡県立がんセンター副院長
上坂克彦(うえさか かつひこ)先生
1958年愛知県豊田氏生まれ。82年名古屋大学医学部卒業。当時新しい分野として注目されていた肝臓外科医を目指す。国立がんセンター病院(東京)にて肝臓がん手術の世界的権威・幕内雅敏医師(現・日本赤十字社医療センター院長)のもとで修行。90年からは、肝門部胆管がんの権威で愛知がんセンター(名古屋市)前総長の二村雄次医師に師事した。02年に静岡がんセンター肝・胆・膵外科部長、11年より現職を務める。
臨床試験報告、世界から注目
膵臓がんの治療で1月に発表された国内の臨床試験の報告が、世界から注目されている。手術の後の再発を防ぐため6ヶ月、従来の標準的な抗がん剤を投与した場合と、経口抗がん剤「S-1(エスワン)」を投与した場合で比較した結果、S-1の手術2年後の生存率は70%と従来の薬より17ポイント高かった。上坂医師には欧米から講演依頼が相次いでいる。「すい臓がんに携わる者として、患者さんを何とか救いたいと始めた研究」と振り返る。
恩師の教え
幕内・二村の両先生からは、血管が複雑に絡み合うデリケートな組織を正確に切る技術もさることながら、「絶対諦めない心」を学んだ。あらゆる手段を考え、患者の為に最善を尽くす。
胆道、肝臓、膵臓などねんかん300を超す手術をこなす今も、その心が精神的な柱。最善の手術法を決める正確な術前診断、手術の高い技量、術後管理を含めたチーム医療の実の高さは定評があり、全国から患者が訪れる。