がん克服【ナノマシン開発】世紀の偉業


東京大学大学院工学系研究科・医学系研究科教授

片岡一則(かたおかかずのり)先生

昭和25年 東京都生まれ

昭和49年 東京大学工学部合成化学化卒業

昭和54年 東京大学大学院工学系研究科合成化学専攻博士課程修了後、東京女子医科大学助手。同大学助教授、東京理科大学基礎工学部教授などを経て、平成8年ナノキャリア(株)設立。10年より東京大学大学院工学系研究科教授、16年より同大学院医学系研究科教授を兼任。

フンボルト賞・江崎玲於奈賞など国内外の賞を多数受賞。

SF映画の世界を超えた「ナノマシン」

 極小のマシンが体内の病気を診断し、メスを入れずに治療する。半世紀前、SF映画で描かれた夢のような世界がいま、現実のものになりつつある。

 その正体は、特殊な機能が組み込まれた高分子の集合体「ナノマシン」だ。

 

 

 

がん克服【新しい医療を目指す】日本中が注目の外科医


長堀 優(ながほり ゆたか)先生

育成会横浜病院院長

1948年 東京都生まれ

1983年 群馬大学医学部卒業 横浜市立病院研修医

1985年 横浜市立大学医学部第二外科入局

1993年 ドイツ・ハーファー医科大学にドイツ学術交流協会推奨学生として留学

その後   横須賀共済病院外科医長、横浜市立みなと赤十字病院外科部長等歴任

2008年 横須賀船員保険病院副院長・外科部長

2015年 育成会横浜病院院長に就任

      日本外科学会指導医・日本消化器外科学会指導医・日本がん治療機構認定医

日本中で大ブレークの新しい医療を目指す注目の外科医

   消化器系、特に食道・胃がんの外科手術の権威。

 人類が経験したことのない超高齢化時代を迎え「ケアの充実」を医療の柱と考える。

 「大切なのは、患者さんがいかに自分らしく、どのような生涯を生きるか」。

 多くの患者や、その家族と接する中で「死は医療の敗北」とされていた若いころには思いもよらなかった境地に辿り着いた。昨年、横浜狩場の丘の上に建つ病で医師としての人生を全うする。

 30歳代に体験したがん患者とのやりとりが忘れられない。自身の体が蝕まれている事を知らない患者が、柳田邦男の著書「《死の医学》への序章」を柔らかい笑みを浮かべながら差し出した。「先生、分かってますよ。旅立つ準備は出来ていますから。」

 そう言われるようだった。

 医療人として在り方を模索し続けた医師人生。

 辿り着いたのが、「寄り添い支える医療」。

 それを実現させるために新たな舞台に立った。

~がん克服のために~

がん克服【凄腕の医療人】前立腺がんのスペシャリスト


斎藤史郎(さいとう しろう)先生

国立病院機構東京医療センター泌尿器科医長

東京医療保険大学大学院臨床教授

1982年 慶應義塾大学医学部卒業 医学部助手

1986年 琉球大学医学部助手

1987年 慶應義塾大学医学部助手 泌尿器科チーフレジデント

1986年 立川共済病院医員

1992年 米国メモリアルスローンケタリングがんセンター研究員

1995年 慶應義塾大学医学部助手

1997年 慶應義塾大学医学部講師 国立病院機構東京医療センター泌尿器科医長

現在    国立病院機構東京医療センター外来診療部長 東京医療保険大学院臨床教授

前立腺がん 小線源療法のリーダー

草創期から前立腺がんの小線源療法に注目し、その普及に努めてきた。「小線源療法は、低リスクから高リスクまで、限局性前立腺がんの治療法として確立しつつあります」と語る。

 

がん克服【乳がん手術のエキスパート】


昭和大学医学部外科学講座乳腺外科部門教授

昭和大学病院ブレストセンター長

中村清吾(なかむら せいご)先生

1956年 東京浅草に生まれる

1993年 千葉大学医学部卒業 聖路加国際病院外科で研修

1997年 聖路加国際病院外科副医長

2001年 第8回乳がん学会久野賞受賞

2003年 聖路加国際病院外科医長

2005年 同      ブレストセンター長・乳腺外科部長

2008年 千葉大学医学部臨床科准教授兼務

2009年 プロフェッショナル仕事の流儀第121回「人生によりそいがんと闘う」出演

2010年 昭和大学医学部外科講座乳腺外科部門教授・同病院ブレストセンター長

年間700件以上の乳がん患者を手術

中村が率いる診断と治療の専門センターは、乳がんの手術数が700件を超える、日本屈指の多さを誇る。センターを立ち上げて、育て上げた。しかし、治療には常に謙虚さを持って向かう。

「医師は、謙虚であれ」

「自分の診断は本当に正しいのか」「これで間違いはないか」。中村は患者の声に真摯に耳を傾け、少しでも疑問が残る場合は、同僚に意見を求める。そして、その姿勢を若手医師にも伝えようとしている。「白衣を着ていると《先生》と思われるかも知れないけど、それに溺れてはいけない、もっと謙虚でなくてはいけない」と中村は言う。謙虚さを失うと、医師としての成長が止まってしまうと考えるのだ。

父の姿を見て医師の道へ

中村は、東京浅草で生まれ育った。父は浅草で名を知られた鍼灸師(しんきゅうし)だった。いつも、患者の愚痴や悩みを聞きながら、時には厳しく、時には優しく対応していた。中村は、そんな父の後ろ姿を見て育ち、医師の道を志した。

外科の道に進んだ中村は、いつか病気を「治す」ことばかりに目を向けるようになってしまい、いつの間にか、患者の「声」に真摯に耳を傾ける姿勢を忘れてしまっていた。

忘れることができない患者の最期

ある時、幼子を連れた再発患者が中村を頼ってやってきた。「一日でも長く生かせてあげたい」。しかし、抗がん剤を次々に投与しても効き目はなく、副作用の厳しさだけが彼女を襲った。そして彼女は「子供の世話をしたい」と言いながら、苦しみながら息を引き取った。中村は「自分のやり方は本当に正しかったのか」と、深く悩んだ。

乳がんの先進国、アメリカで勉強したい

中村は、救えなかった命を真摯に受け止め、乳がんの先進国であるアメリカでの研修を希望し、アメリカへ向かった。ここで中村は、一人の患者をたくさんの専門医でともに診る「チーム医療」というのを知る。

彼らは治療だけでなく、患者のその後の生活まで見据えて相談にのっていた。

日本に帰った中村は、時間を掛けながら同僚を説得。2005年、チーム医療を本格的にスタートさせた。

患者の人生によりそう

乳がんの患者は、30代の後半から急に増え始め50台でピークを迎える。この年代の女性は、母として、妻として、仕事人として、社会的役割は多きい。それだけに、自分の体だけに構っていられず、病気による悩みも深くなる。

ある患者は、子供に病気の事を知らせずに入院した。がんの治療には、家族の応援が必要だ。中村は、彼女の気持ちを汲み取り、人生に寄り添いながら、治療と人生のサポートをしょうと試みる。

医師の仕事は、「ただ治療すればいい」ではなく、患者の心に寄り添っていきたいと中村は言う。

~がん克服のために~

 

 

 

 

 

がん克服【神の手を持つスーパードクター】


ドクターXのモデルになった加藤友朗(かとう ともあき)先生

コロンビア大学医学部外科学教授

同大学付属ニューヨーク・プレスバイテリアン病院肝小腸移植外科部長

1963年 東京生まれ

1987年 東京大学薬学部卒業後、大阪大学医学部に学士入学

1991年 大阪大学医学部卒業、同大でインターンシップを終了後、兵庫県伊丹市立病院で研修医

1995年 マイアミ大学医学部にてクリニカル・フェローとして勤務

1997年 同大小児移植外科准教授 2007年教授

2008年 コロンビア大学医学部外科学教授

世界を驚嘆させた《神の手》を持つ外科医

最先端の臓器移植手術を数多く手がけるとともに、ほかの病院では「手術不可能」と診断されたがん患者を救ってきた。その手腕は「神の手」との尊称で呼ばれる。

おなかの臓器をいったん全部外に出す!

加藤の名を世界に轟かせた手術の一つが世界初の「多臓器体外摘出腫瘍切除」手術だ。つまり「もう切ることができない」と診断された場所に出来た腫瘍を取り除くため、内臓(胃・すい臓・脾臓・肝臓・大腸・小腸)をいったん全部外に出して(当然、血管も全て切離す)腫瘍を取り除いた後、再び臓器をおなかの中に戻す。血管も再び縫い合わせるという、気の遠くなるような大手術だ。

この手術は、2008年に63歳の女性に、2009年には7歳の女の子に行われ、ニューヨーク・タイムズ、CNN,ABCといった米国の主要メディア、さらに世界の報道機関が「日本の天才ドクターが世紀の大手術に成功」と大々的に報じた。

世界中から助けを求める手紙が届いている

複数の内臓にまたがる移植手術や腫瘍切除のエキスパート。移植手術は2000件を超える。多内臓が絡むと、30時間以上ぶっ通しの手術になることも。世界中からがん患者の問い合わせも、後を絶たない。

加藤先生と一問一答

●~おなかの中の全部外にだすんですよね~

加藤 胃・すい臓・脾臓・肝臓・大腸・小腸ですね。

●~おなかの中は、空っぽになるんですね~

加藤 完全に空っぽです。普通の外科手術では見たことのない景色です。術後患者さんに本人の手術時の写真を見てもらうのですが、かなりびっくりされていました。

●~そんなに出して、体の中は危なく無いんですか~

加藤 一定の時間があれば問題ありません。体外に臓器を摘出するためには、まず、全ての臓器を体に付着している部分から剥がさなければなりません。これは繊細に丁寧に、剥離しては止血する作業になります。

最終的には大動脈(全身の血液の大もとになる太い動脈)、大静脈(同じく太い静脈)以外を全部ぶらぶらになるところまで剥離してから、この大きな血管(大動脈と大静脈)を切ります。そして、6つの臓器と、腫瘍に絡みついた血管部を一緒に、体の外に出してしまうというわけです。

●~太い血管も細い血管も全て切って、一つ一つ止血。気の遠くなる様な作業ですね。おなかの中はどうなっているのですか~

加藤 臓器を出した後、重要な血管は「ゴアテックス」という、レインウエァなどにも使う素材の人工血管で置換し、血流を再開します。そうすると、心臓からおなかの中の方へ行っていた血流が再び足元まで流れるようになります。

●~血液は、おなかの内臓をスルーしても、ちゃんと全身を循環していれば問題ないのですか~

加藤 最長6時間、少なくとも4時間は問題ないと思っています。万が一、体外で腫瘍を切る時間が延び6時間を超えた場合も、低温冷却することで対処は可能です。ただその時は、人工心肺の準備が必要になる。低温による心肺停止の可能性が出てくるからです。

●~体外に出された臓器はどんな状態になっているのですか~

加藤 内部に残った血液を全て抜いた状態で、4℃に保った特殊な保存液に漬けておきます。この保存液は臓器移植の現場で磨かれたもので、10時間までなら臓器にダメージが残らないと考えられています。移植手術の際、臓器を輸送する時にも使われているんですよ。

●~では、腫瘍の切除は保存液に漬けたままやるんですね。~

加藤 そうです。体外に摘出した臓器にも体にもダメージを残さない時間内に腫瘍を切除して、血管を再建する。そして臓器を患者さんの体に戻し、血管を吻合(ふんごう)し、血流を再開させる発想です。

●~おなかの臓器を全て外に出しても元気なんて!人間の体ってすごいですね。

加藤 不思議でしょう(笑)。この手術の1回目の患者さんの病名は「平滑筋(へいかつきん)肉腫」といって、決して難治療ではないのですが、彼女の場合は腫瘍のできた場所が悪かった。約7㌢の腫瘍が、大動脈から腹部の内臓に血管を送る大きな血管を巻き込んでいたのです。

しかも、背中に近い、体の深い場所に腫瘍があって、辿り着くのが極めて難しく、ほかの病院では切除不可能としんだんされたんです。そこで僕は腫瘍を臓器ごと外に一回出しててしまえばと考えたわけです。

●~あらためて聞いても、やはりとっぴな発想と思えますが~

加藤 話だけ聞くとそう感じるかもしれませんが、それ程発想飛躍はないんです。というのも、僕はそれまでに多くの移植手術を手掛けてきました。日本に比べ移植手術の件数が圧倒的に多いアメリカでは(日本・年平均300件 アメリカ年平均2万2千件)、臓器を全て取り出す多内臓移植も珍しくない。

一方で、腫瘍の外科手術においても、臓器を体外に取り出す手法はあった。僕は、臓器移植と腫瘍、双方の外科手術を経験してきたから、両方を組み合わせる発想が出来たんだと思います。

●~先生はやはり、もともと器用だったんですか~

加藤 器用な方だったと思います。確かに外科医には、繊細さや器用さは不可欠です。しかしそれも才能ではなく、やはり基礎の積み重ねなんです。実際、若い研修医を見ていても、将来、力を発揮できるかどうかは見えてきます。例えば、傷口のガーゼ交換ひとつでも、完ぺきにこなそうとする人は将来伸びてくる。点滴の針を刺すことにおいても同様で、針に入れ方で患者さんの感じる痛さもだいぶ変わるんです。入れた瞬間に、針が血管の奥側に触れると痛いんですよ。この微妙な力加減を意識して練習できるかできないか。

だから大事なのは、その場その場で自分に与えられたことを完ぺきにこなすことです。人より早くでなく、人よりうまく丁寧にこなすこと。これが大事で将来につながっていきます。

●~手術は12時間を超えることもあるそうですが~

先ほどお話しした手術の場合、腫瘍の切除と再移植にかかったのは1時間半ほどでしたが、トータルの時間は15時間でした。これは、臓器を体の組織から丁寧に剥がし、1㍉以下の血管に至るまで丹念に止血するといった細かい作業に時間を掛ける為です。手術時間が長時間になっても、止血が最小限に済めば、その後の回復が早くなるからです。

●~今のところ、最長としての記録は~

加藤 30時間ですね。

●~30時間って、一日以上ですよ!集中力ってそんなに持つものなんですか~

加藤 僕も、以前は12時間を超える手術はすべきでないと思っていました。だけどある時、非常に困難な腫瘍手術を引き受けて実際に開けてみたところ、状態が非常に悪く、12時間以内に収まりそうになかった。それでも僕がやらない限りだれもやってくれないわけですよ。終わったら24時間を超えていました。この時、自分の中の12時間というリミットが一気に吹っ切れました。

●~自分で外したのではなく、経験によって自分のリミットをはずしたんですね。休憩は取るんですか~

加藤 15分から20分ほどの休憩を何度か。少し横になったり、何か食べたりします。

●~何を食べるんですか~

加藤 ポテトチップスやチョコレートなど食事というより、栄養補給です。

●~眠くは無いんですか~

加藤 不思議とないんですよ。手術でない時24時間連続で起きているのは辛いですが、手術室では違うモードに入るんでしょうね。トイレにも行きたくないですから。

加藤先生のモットー

世界を驚嘆させた奇跡の手術を成功させた加藤医師だが、あくまでも「基礎の組み合わせ」だったと謙虚に語る。彼は「神の手」といった呼び方に対しては、心ならず戸惑いを感じているようだ。

そうは言えど、いったん切り離した太さ1㍉以下の血管を縫い合わせ、細かく丁寧に針糸をかけて止血していく(最も多い時は、一度の手術で5000本以上)その技術はやはり「神の手」と呼びたくなる。

●~最後に先生のモットーをお聞かせ下さい~

加藤 どんなオファーでも、簡単に「No」と言わない。それで得られたものがいくつもあります。人生の幅も広がりました。駄目だと思っても、何か方法は無いか、少しは考えてみる癖をつける。既存の考え方にこだわらず、時には枠からはみ出して考えてみることです。そうすると、その先に自分のスタイルが見えてくると思うんでよす。それと、僕の持っている技術を多くの後輩に伝えたい。難度の高い医師が増えれば、それだけ助かる患者さんも増えますから。

素晴らしい人間性

加藤さんは時折ジーンズで病院に出勤することもあるそうだ。

白衣を着て、いかにも「権威」という雰囲気を醸し出すのも嫌う。患者さんに「この人はすごい人だ」という先入観を抱かせない様、ざっくばらんに話が出来る様、素朴な質問が出せる様、そして信頼関係が構築できるように出来るだけ、白衣を着無いようにしていると言う。

高額医療が望めないベネズエラの患者のため、10年程前から週末は現地に飛び、移植手術に携わっている。

いつまでもお元気で、世界中の患者のためにその技術を後輩の医師に伝授されますように!

~がん克服~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

がん克服 【胃がんの名医】凄腕のドクター


静岡県立がんセンター 内視鏡科部長

小野裕之(おの ひろゆき)先生

1962年 北海道生まれ

1987年 札幌医科大学卒業 同大第四内科に入局

1991年 国立がん研究センター中央病院研修医

2002年 静岡がんセンター開院にともない同センター内視鏡科部長に就任

2012年 同センター副院長兼内視鏡科部長

ESD(内視鏡的粘膜剥離)治療法を開発

国立がん研究センターのレジデントだったときに、早期がんを一括して取ることのできるESDという治療法を開発した。それまでは、EMR(内視鏡的粘膜切除術)が主流であった。

EMRは、内視鏡の先端からループ状のワイヤーを出して隆起させておいたがん病巣にかけ、ワイヤーを締めて高周波電流を出して焼切る。この方法の弱点は、直径2㌢程度になると分割して取ることになり、しかも再発率が20%もあることだ。

がん病巣を一括して綺麗に取れないか。がんの周囲を切り、剥ぎ取るアイデァが浮かんだものの良い器具がない。その時先輩の細川光一医師が、針状高周波メスの先端に絶縁体を付けようと。すぐさま実験を行い、臨床応用にこぎつけたのが1995年の暮れ。その後細川医師は転院し、後輩の後藤田卓志医師が開発に加わった。

1998年、悪戦苦闘の末ESDが技術的完成を見た。5年後にITナイフが市販され、2006年に保健適用になるやESDはあっという間に広がった。

名医の条件

名医とは「患者が患者を呼ぶ」存在と言われる。治療を受けた患者が、その医師に心酔して別の患者を紹介するのだ。だが、患者に医師の人間性は分っていても、本当の意味での手術の技量は分からない。手術の技量を知りうるのは、同じ手術を行う医師達である。

小野裕之医師は、最大150㍉の早期がんを治療したこともある凄腕の医師だ。名医の条件を伺うと「まずは腕です。第二が心です」と明快だ。 モットーは「早く、正確に、安全に」という。

全国から患者が来院 ESD手術のメリット

お腹を切らずに胃がんを治すなら小野医師と、日本全国から患者が後を絶たない。早期胃がんや食道表在がんのESD治療では3000例を超える執刀を誇り、国内だけでなく世界的に手法を普及させた。

ESDのメリットは、胃を残せることである。術後3日でおかゆが食べれるようになり、5日後には普通に食事ができ、4泊5日で退院できる。開腹手術で胃を切り取った場合は最低2週間程度の入院となり、食事は1日何回も小分けにして少量ずつ食べる。食後は、動悸・めまい・冷や汗などが生じるだピング症候群という後遺症がおこる場合もある。さらに治療費の自己負担額も開腹手術に比べ、半額以下の5~6万円で済む。

~がん克服~

 

 

がん克服 【動脈瘤・脳腫瘍・脳虚血手術】の名医


日本医科大学主任教授

森田明夫(もりた あきお)先生

昭和32年7月生まれ 東京大学医学博士

昭和57年 東京大学医学部卒業 東京大学医学部付属病院脳神経外科入局

昭和58年 広島県新市町寺岡記念病院勤務

昭和59年 三井記念病院勤務

昭和62年 静岡県富士宮市脳障害研究所附属病院勤務

昭和63年 都立神経病院勤務

平成 元年 米国ミネソタ州ロチェスター市に留学

平成 2年 米国連邦医師資格取得

平成 7年 ジョージワシントン大学脳神経外科頭蓋底外科・施設長・教授

平成 9年  広島県新市町寺岡記念病院脳神経外科部長

平成10年 東京大学脳神経外科講師

平成13年 東京大学脳神経外科助教授

平成18年 NTT東日本病院脳神経外科部長

平成25年 日本医科大学脳神経外科主任教授

特殊専門 脳動脈瘤・脳腫瘍のスペシャリスト

頭蓋底疾患(脳腫瘍、脳血管障害)

聴神経腫瘍、髄膜腫の治療手術

脳動脈瘤の治療

脊髄・脊髄外科(脊髄腫瘍、ヘルニア)

定位脳外科(パーキンソン病等)

三叉神経/顔面麻痺の手術

年手術実績 世界有数の手術回数

●統計手術数    1269件

●未破裂動脈瘤手術   86件(うち血管治療12件)

●破壊動脈瘤手術   115件(うち血管治療 4件)

●脳虚血手術     915件

●脳腫瘍手術     211件

モットー 優れた研究を世界に発信

今を支えるための「臨床」、明日を支えるための「研究」、未来を支えるための「教育」があることを信ずる。「今後、さらに患者さんの為になる研究を進め、後輩たちが優れた研究を世界に発信できるように指導したい」

~がん克服のために~

がん克服 【脳の病の最後の砦】全国トップクラスのドクター


旭川赤十字病院脳神経外科顧問 禎心会脳疾患研究所所長

上山博康(かみやま ひろやす)先生

1948年 青森県生まれ。

1973年 北海道大学医学部卒業 同大学脳神経外科入局。その後旭川、釧路、美唄などの関連医療機関で6年間研修した。旭川赤十字病院で研修中には毎晩顕微鏡を使い、ネズミの血管を縫う練習をした。その後、函館の国立療養所に脳神経外科を開設するため赴任した。

若いころから手先は器用で、手術には自信があった。29歳の時、一人の医師の手術を見て衝撃を受ける。

伊藤善太郎、全国的に知られた脳卒中のエキスパート。流れるような針の捌きに上山は目を見張った。自分もこんな手術が出来るようになりたい。

1980年 伊藤善太郎に弟子入りするために、国立療養所から秋田脳血管研究所へ転勤し伊藤のもとで働くことにした。伊藤の手術に立ち会い、その技術を懸命に学んだ。

伊藤からは技術の他、医師としての心構えも学んだ。「患者さんは命を懸けて医師の許にやって来る、だから医師もかくごがいる」それが上山の信念となった。

1985年 伊藤は志半ばで急逝する。上山は伊藤の死後北海道大学に戻り脳神経外科の助手になる。その後、脳動脈瘤手術数でギネスに登録される経歴を持つ、藤田健康衛生大学の佐野公俊に手術の相談や指導を受ける。

匠の手を持つ脳外科医 その腕を頼りに

全国から患者が集まってくる

そして旭川赤十字病院の脳神経外科部長になり、「患者さんが人生をかけてやってくる、僕は医師の命を懸ける」をモットーに自分の力が必要と言われれば日本中の病院に足を運び、脳血管手術や脳腫瘍の摘出手術など手がける。脳動脈瘤のクリッピング手術では年間300件以上/累計20000件ほどの手術をこなし、「脳血管に関わる手術で日本一」「匠の手を持つ脳外科医」と呼ばれるようになり、全国から患者が訪れるようになった。手術器具の開発にも力を入れ、特に上山式ハサミは今や全国の脳外科医がつかっており、上山が描いた脳外科手術のイラストも医学書に使われている。

「神の手」福島孝徳先生も絶賛

世界中から「神の手」「ラストホープ(最後の切り札)」と呼ばれる脳神経外科医・福島孝徳先生も、「もし僕が脳血管の手術を受けるなら上山先生にしてもらう」と発言するなど、その技術は同じ脳神経外科の先生の中でも際立って賞賛されている。

~がん克服の為に~

 

 

 

がん克服 【脳神経外科の世界的権威】


ホワイトジャックと呼ばれた男 藤田保健大学名誉教授

佐野公俊(さの ひろとし)先生

1945年 東京都に生まれる。

1970年 慶應義塾大学医学部卒業

1971年 慶應義塾大学医学部脳神経外科入局

1976年 藤田保健衛生大学赴任

1977年 藤田保健衛生大学医学部外科学科講師

1980年 藤田保健衛生大学脳神経外科助教授

2000年 藤田保健衛生大学脳神経外科教授

2001年 藤田保健衛生大学脳神経外科救急部教授

2003年 救命救急センター長

2004年 藤田保健衛生大学脳神経外科主任教授

2010年 総合新川橋病院副院長・脳神経外科顧問

藤田保健衛生大学名誉教授・藤田保健衛生大学脳神経外科客員教授

世界脳神経外科連盟 脳血管障害部門委員長

ギネス記録を保持するドクター

医師の祖父と叔父に憧れて、慶応大学医学部に入学。研修医時代に耳鼻咽喉科に研修に回ったとき、耳鼻咽喉科の手術に使われていた手術用の顕微鏡を脳外科手術でも使えないかと思い、脳外科医を目指した。だが、当時の日本では脳外科手術に顕微鏡は使われていなかったため、脳外科顕微鏡手術の豊富なアメリカに留学する予定だったが留学しなかった。一般外科の研修を行った後、慶應義塾大学で脳神経外科の研修に入った後脳神経外科に入局した。

1970年、日本に顕微鏡を使った脳外科手術が導入されると同時に、顕微鏡時代を予言し自費で顕微鏡を購入した。慶應義塾大学で手術器具を開発しながら多くの脳動脈瘤のクリッピング手術を経験した。

くも膜下出血の原因となる脳動脈手術は3500例以上も行い、200年、2001年のギネスブックに掲載された。

全ては患者の為

モットーは、「自分が患者だったら、やってもらいたいような手術をする」「丁寧できれいな手術を心がけ、次世代に伝える」こと。

世界でも極めて少ない無血手術が出来る腕を持っており、「神の手・仏の心を持つ医師、ブラックジャックならぬホワイトジャック」と呼ばれる高度な技術と、医師としての心構えに心を打たれ、師事する医師が後を絶たない。旭川赤十字病院の上川医師も薫陶を受けた一人である。

佐野先生の現在

藤田保健衛生大学退任後も、困難な症例のオペを藤田保健衛生大学で、川崎市にある総合新川橋病院では週2回の手術。静岡県の藤枝平成記念病院、豊川市の青山病院でもオペを行っている。名古屋脳神経外科クリニック・ジャパン藤脳クリニック・愛知腰痛オペセンター等で診察・外来診療も行っている。

がん克服・脳疾患治癒の為、いつまでもお元気で世界の腕を惜しみなく奮って戴きたい。

~がん克服のために~

がん克服 【肝胆膵疾患治療の大家】


愛知県がんセンター総長 名古屋大学大学院腫瘍外科学教授

二村雄次(にむら ゆうじ)先生

1943年 生まれ

1969年 名古屋大学医学部卒業 附属病院分院にて卒後研修

1970年 安城市八千代病院 外科医員

1973年 癌研究会附属病院 外科研修医

1974年 名古屋大学医学部付属病院 第一外科医員

1978年 名古屋刑務所医務部 法務技官

1979年 名古屋大学医学部 第一外科 助手

1980年 名古屋大学医学部 第一外科 講師

1985年 名古屋大学医学部 第一外科 助教授

1987年 米国カルフォルニア大学ロサンゼルス校文部省在外研究員

1991年 名古屋大学医学部 第一外科教授

2000年 名古屋大学医学部付属病院 副病院長

2000年 名古屋大学医学部附属病院 院長

2002年 名古屋大学大学院腫瘍外科学科 教授

2007年 愛知県がんセンター 総長

賞歴

1996年 国際肝胆膵学会 ベストビデオ賞

1997年 高松宮妃癌研究基金学術賞

2005年 中日文化賞

主な公職等

日本外科学会会長・理事 日本癌治療学会評議員 日本胆道学会理事長 日本膵臓学会評議員 日本肝胆膵学会理事 日本腹部救急医学会評議員 日本消化器外科学会評議員 日本脈管学会評議員  日本臨床外科学会評議員 日本外科系連合学会評議員 日本消化器病学会財団評議員 日本静脈学会評議員 名古屋大学経営協議会学外委員 全日本柔道連盟医科学委員会副委員長

著書 1996年 肝臓の外科解剖(訳書)2000年消化器病セミナー・胆道疾患の診断と治療ー新しい工夫2005年 胆道外科の要点と盲点 2005年 胆道外科ーStandard & advanced techniques  2009年胆道外科の要点と盲点(Knack & Pitfalls)

胆道癌の権威 日本外科学会会長

肝門部胆管がんを中心とする胆道癌外科治療に関しては、難度の高い症例への対応、手術数、治療成績ともに世界有数の実績であり高い評価を受けている。胆道、肝臓、膵臓の沈黙の臓器と言われるがんの世界的な権威であり、現在世界から注目を集めている上坂克彦医師(静岡がんセンター副院長)など、多くの胆肝膵がんの医師を育てた。

~がん克服のために~

 

 

 

 

 

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